イヌワシの危機的現状

  イヌワシは食物連鎖の頂点に位置しているため、もともと数の多い生き物ではありません。繁殖は年に1回だけで、半年以上の期間を費やしてようやく1羽のヒナを育て上げるのが通例ですから、何らかの原因で生息数が減っても、回復するのは容易ではありません。個体数が少なくなった状態が続くと、災害や病気など偶然的な出来事の発生や、遺伝的多様性の低下などで絶滅に追い込まれるおそれが高まります。
 現在、イヌワシはさまざまな危機によって絶滅が危惧される状態にあります。以下に、その現状を解説します。
 
 <繁殖率の低下と個体数の減少>
 現在、日本のイヌワシにおいて最も大きな問題とされているのが、繁殖成功率の低下です。繁殖成功率とは、全つがいのうちヒナが巣立ちしたつがいの割合で、1990年代以降、全国的に低下が見られており、現在も低い状態で推移しています(日本イヌワシ研究会 2014)。このままの状態が続くと、次世代を担う個体が不足し、個体数の縮小や絶滅が心配されます。
 岩手県内のイヌワシに関しても、繁殖率の低下傾向が認められています。1989年までは平均して48%のつがいが繁殖に成功していましたが、1990年以降は平均17%に下がってしまいました。2005年以降は10%以下の年も多く、成績の低下が顕著になっています。


 

岩手県内のイヌワシの繁殖成功率の推移(標本数の少ない1982、87年は除いた)
 
  岩手県のイヌワシの繁殖成績は、1980年代には50〜60%と高い値を示していますが、これは、この時期に全てのつがいを網羅した繁殖調査が行なわれていなかったことが関係していると考えられます。一部のつがいしか調査できない場合に、繁殖成績の良いつがいが優先して調査される傾向があるとすれば、見かけ上、繁殖率が高くなる可能性も考えられます。仮に調査されなかったつがいを繁殖不成功とみなして成功率を求めると、1970年代から2010年代にかけて、ほぼ一貫して低下する傾向がみてとれます。

 

繁殖成否の記録がないつがいを不成功とみなした場合の繁殖成功率の推移
 
  繁殖率の低下により、実際にイヌワシは減っているのでしょうか。イヌワシは寿命の長い鳥で、成鳥になってからの死亡率は低いと考えられますので、すぐにいなくなってしまうことはありません。しかし、長期的に見ると個体数減少の傾向は現れつつあります。日本イヌワシ研究会 (2017)によれば、1981年から2015年までの間に全国で107つがいが消失しています。北陸地方では4分の1以下になり、四国では絶滅したとも推測されています。
 岩手県でもこれまでに約10つがいが消失したと推定されており、最近10年間で1割程度の個体数減少が生じている可能性があります。
 
  イヌワシが減ることなく、将来にわたって存続していくためには、どれくらいの繁殖成功率が必要でしょうか。それを推定するためには、イヌワシの生存率や繁殖可能年齢などの情報が必要ですが、日本のイヌワシについてそうしたデータは得られていません。そのため、国外のイヌワシと概ね同じであると仮定した上で、それらのデータを利用して推定を行なうと、およそ31%となります(由井 2007の修正値)。これを目安にすると、現在の繁殖率は個体数を維持していけるレベルに達していません。
 
 <採餌環境の不足>
 繁殖率が低下している理由には、まだ明確でない部分もありますし、さまざまな要因が複合的に関わっている可能性もありますが、主要な原因としてあげられるのが「採餌環境の不足」です。これは、伐採や管理が行なわれない林地が増加した結果、密生した木々が山を覆ってしまい、イヌワシが餌捕りに利用できる開放的な環境(伐開地、若い植林地、草地など)が少なくなったというものです。実際、行動圏内に採餌に適した環境が乏しいつがいほど、繁殖成功率が低い傾向が見られています(由井ほか 2005)。
 
  この背景には日本の林業の不振があります。採算が合わないため主伐や間伐が行なわれず、放置される森が増えています。管理不足で樹木が密生した森では、餌動物がいてもイヌワシが上空から急降下して捕らえることが難しくなります。また北上山地では、かつて農耕馬の飼養のために多くの採草地が維持され、イヌワシの好適な餌場となっていました。しかし、農耕馬の需要のない今では、採草地も少なくなりました。

 

開けた環境が少なくなった森林(左)と 採餌場所となる草地(右)
 
  今日見られる近代的な牧野は、イヌワシの餌場としてある程度の機能を果たしていると考えられます。しかし、集約的に管理された広大な牧野には、ノウサギなどの餌動物が好む粗放的な草地や、林と接している環境(林縁部)が乏しいため、餌動物のすめる場所があまり多くないことが指摘されます。十分な餌量が確保できない親鳥はヒナの養育もできませんし、それ以前に自らが産卵に必要な栄養状態になれなかったり、採餌のために繁殖活動を開始する余裕がなくなったりすることもあると考えられます。

 

近代的な牧野
 
 <有害物質の蓄積>
 高次捕食者である猛禽類にとって、有害化学物質の蓄積の影響も懸念されます。餌生物によって摂取された農薬などの化学物質が、捕食を通して猛禽類の体内に濃縮された結果、個体が死亡したり卵殻が薄化するなどの事例が知られています。日本のイヌワシではこうした影響についてはまだ明確にされていませんが、兆候が現れていないか監視していく必要があります。オジロワシ、オオワシなどでは、鉛弾で狩猟されたシカなどの死体を食べることで鉛を摂取し、中毒死する事例も知られています。岩手県内でもシカの分布が拡大しており、放置された死体をイヌワシが利用する可能性もあるため、鉛汚染に対する注意も必要です。
 
 <生息環境の消滅や営巣地の攪乱>
 開発等による生息環境の消失は多くの生物の脅威となっていますが、イヌワシも例外ではありません。とくに山間地のダム、スキー場などのリゾート、大規模林道、採石場などの建設は、イヌワシの生息可能な環境を大きく失わせることになります。近年はとくに、大規模な太陽光発電施設の建設が増えています。
 また、イヌワシは頻繁な人の接近や騒音の発生、立木の伐採、ヘリコプターの運航などで、繁殖を中止してしまうことが少なくありません。一旦繁殖を放棄すると、その年にはもはや再開することはありません。
 岩手県内でも、開発計画にともなう山間地での工事が多数行なわれています。イヌワシの生息密度が高いため、イヌワシを避けて計画することが困難な場合も多くみられます。営巣地からできるだけ離れて作業するようにしたり、繁殖期の工事を控えたりする対策もとられていますが、大規模な開発では営巣地への直接的な攪乱が何年も続く場合があります。


 

採石場・伐採・ヘリコプター
 
 <風力発電施設への衝突>
 自然エネルギーの利用促進のため、風力発電施設の建設が近年盛んになっています。しかし、各地で鳥類の衝突事故も報告され、その影響が懸念されています。
 岩手県内にも多くの風車が建設されいます。それらは、高原の牧野や尾根沿いなどの風の強い場所を選んで設置されていますが、こうした場所はイヌワシにとっても飛行しやすく、また餌場としても良く利用される環境にあります。
 オジロワシなどで知られている衝突事故がイヌワシでも起こりうるのかは未知でしたが、2008年9月に国内で初めてのイヌワシの衝突事故が岩手県内で確認されました。衝突したのは雌の成鳥で、左の前腕部が切断されていました。このような事故がどれくらいの頻度で起きるのか、一例のみからは推測し難しいですが、風車がイヌワシに対してリスクをもたらす存在であることは明確になりました。繁殖率の低下した個体群にとっては、1羽の損失でも大きな影響を与えかねません。また、風車の存在が餌場としての利用可能性の低下を招くことも指摘されています。今後も導入が進められるであろう風力発電施設との、適切なすみ分けが必要になります。また、一地域に多数の建設計画が同時進行している事例が多いため、これらの累積的影響を評価することも重要です。


 

尾根に立ち並ぶ風力発電施設