言い伝えられた平泉                                        前のページへ 


 1689(元禄2)年芭蕉がこの地を訪れ、その過去の栄耀との落差を格調高い文学として昇華させたのは、奥州藤原氏滅亡後ちょうど500年を経たときである。その後も、平泉は文学の題材として格好の情景を提供する。田山花袋の感じた「日本では一番廃都らしい気分の完全に残っているところであった」(山行水行)や、宮沢賢治の詠む「中尊寺」の中から、『吾妻鏡』寺塔已下注文に伝える往年の平泉の姿を想像することは困難である。
 後世の人々は、平泉・奥州藤原氏について各方面にわたり多様なイメージを生み出している。実在としての平泉は100年あまりの栄華を伝えるに止まるが、逆にそのことが後世の平泉像を極端に大きく膨らませていると考えることができよう。ここでは、それらの中から平泉像形成に大きな役割を持ったと考えられる、「奥州藤原氏」、「源義経」、「黄金文化」について概略を紹介する。

 最初の主題は、中世東北地方において伝説化した奥州藤原氏=平泉の歴史的役割とも言うべきもので、小林清治、入間田宣夫ほかによって論じられている。この時期の東北地方において、「奥州藤原氏」は支配の正当性を示す根拠として用いられ、また、武士団統合の象徴的役割を担わされていたようである。戦国期南奥の覇者である伊達氏は、事実として考えられている鎌倉幕府との主従関係よりも、伝承としての「事実」に過ぎない奥州藤原氏との系譜関係をもって奥州支配の正当性を説明する。
 伊達家臣留守氏の一族余目氏に伝わる「余目氏旧記」は、単に血統のみではなく、仁徳天皇以来の奥州政治の中心地としての平泉の重要性を伝え、14〜15世紀の東北地方に広がる「平泉伝説」を裏付けている。
 また、近世弘前藩津軽氏の始祖「秀栄」が「秀衡」の弟としてつながれていることは、北奥においても同様の意識下にあったことが示されるものであるとされる。すでに滅亡した奥州藤原氏、往時の勢いを失った平泉について描かれたイメージには、支配を正当化する根拠としての役割があったといえよう。
 藤原氏を遡り安倍氏の系譜もまた同様の傾向があり、13世紀の北奥で繁栄を見る津軽安東氏は、伝えられるその最も著名な後裔である。安倍氏に関わる地名や伝承が数多いのも、安倍→藤原と連なる奥州武士団の「本流」が、15世紀後半までかなりの程度意識されていたことの証明として考えられている。後年、歴代の仙台藩主が、平泉諸寺院に対して復興の手を差し延べているのも、このような背景が強く作用しているものであろう。

 源義経は、日本の歴史上最も著名な人物のひとりである。皮肉にも、平泉においてさえ藤原氏以上に有名であるといえるかもしれない。その伝説の形成については、高橋富雄、豊田武らによって詳細に論じられている。
 義経について、『吾妻鏡』・『玉葉』など同時代の一級史料では、わずかな記事があるにすぎない。しかし、13世紀以降の『平家物語』・『源平盛衰記』、14世紀以降の『義経記』など時代が下るにつれて物語が物語を生み、その内容が増幅されて「義経伝説」が形成されていく。能「安宅」や歌舞伎「勧進帳」の基礎をなすものである。
 義経は、少年時代の数年間と、頼朝の追討から逃れるための最後の2年間の二度にわたり平泉に居住しているとされる。秀衡には手厚く待遇され、その死に際しては藤原一族を統率するものとしての期待までかけられている。史実と考えられている義経の最期は、衣川館における自害である。現在、高館義経堂(『吾妻鏡』衣川館かどうかは不明)は、義経終焉の場所としての観光スポットとなっている。
 一方で、『義経記』で完成の域に達した伝説は、中世後半には蝦夷島へ渡る新たな伝説へと発展した。17世紀以降、『鎌倉実記』等通俗的歴史書中では義経生存説が通説化し、『続本朝通鑑』や『読史世論』のような権威ある史書においてさえ、平泉を脱出した義経が北海道で生き延びた、という話題が取り上げられるようになる。もっとも、相原友直は『平泉実記』(1754)中で義経生存説を明確に否定している。
 しかし、義経生存説の伸張は止まるところを知らず、1885(明治18)年、ついに義経=チンギスハン説が広く紹介されるに至る。この説は学問的にはまもなく否定されたものの、伝説としては今日に生き続け、現在北奥各地に義経が平泉を落ち延びて蝦夷島にわたったルートが観光地化されている。このように伝説が再生産されているのは、義経が悲劇のヒーローであると同時に、「平泉」という舞台の神秘性にもその理由を求めることができるのではないだろうか。

 「この国ではいたる所に黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している」。マルコ・ポーロ「東方見聞録」(13世紀末)のこの一節は、日本列島における金の産出を中国大陸を越えてヨーロッパに知らしめることとなった。そして、「国王の一大宮殿は、それこそ純金ずくめで出来ている」という箇所は、かつて金色堂について述べたものと解されたこともあった。
 金色堂ばかりでなく、諸仏像や紺紙金銀字交書一切経、金銅華鬘など今日に伝わる文化財や、諸記録が伝えるところにより、奥州藤原氏の大きな経済基盤のひとつが金(砂金)であったことは疑う余地がない。陸奥の産金は天平年間に遡り、近世に至るまで続いていくが、11世紀中葉以降には、浄土系寺院建立の盛行に伴い、金の需要が高まったものと考えられている。近年の柳之御所遺跡ほか平泉町内の発掘調査においても、微量でありながら金が出土している。
 金商人「金売吉次」は、義経伝説の発展とともに「平治物語」以降の記録に登場する。この人物の実在は疑わしいとされているが、平泉と京都の間で金の売買等を仲介するブローカー的存在については異論がないようである。また、柳田国男によれば、吉次伝説は炭焼により長者となっていく成金伝説と、東日本ほど深く関連するという。ここ平泉にも藤太伝説は存在し、平泉町金鶏山の南方にその墓及び五輪塔があると伝承されている。吉次の屋敷跡と伝えられる場所は全国に分布する。そのひとつ、衣川左岸の吉次屋敷の伝承は近世には見えている(岩手県指定史跡 長者原廃寺跡)。この遺跡は、1958(昭和33)年板橋源らにより発掘調査が行われた。出土遺物から、11世紀代の寺院跡と考えられているが、詳細については検討がなされていない。
 平泉市街域の西方に所在する標高60mの小規模な丘陵が、金鶏山と呼ばれている。18世紀半ばには「基衡黄金をもって鶏の雌雄を造り、此山の土中に築こめて、平泉を鎮護」し、「秀衡漆萬盃の内に、黄金億金を交へ土中に埋み隠し置く」などという伝承が成立している。1935(昭和10)年、山頂付近より経塚が確認され、渥美壺・青銅製経筒が出土している。また、金鶏山の山麓付近東南方からは、1759(宝暦9)年耕作の最中、中に球状の金の入った壺が出土したことが記録されている(相原友直『平泉雑記』)。

 このように、後世さまざまな立場から平泉に関係する伝説・伝承が形成されている。それらは、事実をはるかに超えたものであるが、後の歴史への平泉文化や奥州藤原氏の影響力が小さくないことを示している。個々の主題について、その系譜や思想等検討すべき課題は多いが、平泉文化研究にとって、単に史実の実証的な研究ばかりではなく、このような側面からの研究もまた大きな今日的重要性を持つと考えている。



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