交流人口拡大・コミュニティ再生調査特別委員会会議記録

交流人口拡大・コミュニティ再生調査特別委員長 高橋 博之

1 日時
  平成20年8月6日(水)
  午前10時2分開会、午前11時59分散会
2 場所
  第3委員会室
3 出席委員
  高橋博之委員長、岩渕誠副委員長、佐々木一榮委員、新居田弘文委員、五日市王委員、
  喜多正敏委員、菊池勲委員、樋下正信委員、小野寺有一委員、田村誠委員、
  小野寺好委員
4 欠席委員
  なし
5 事務局職員
  小原担当書記、船本担当書記
6 説明のために出席した者
  宮城教育大学非常勤講師 民族研究家 結城登美雄氏
7 一般傍聴者
  なし
8 会議に付した事件
  (1) 「限界集落の可能性〜若者たちと小さな村の希望〜」について
  (2) 次回の委員会運営について
  (3) 委員会調査について
9 議事の経過内容
○高橋博之委員長 おはようございます。ただいまから交流人口拡大・コミュニティ再生調査特別委員会を開会いたします。
 佐々木一榮委員が少々遅れますので、御了承願います。
 これより本日の会議を開きます。本日は、お手元に配付いたしております日程により会議を行います。
 これより「限界集落の可能性 〜若者たちと小さな村の希望〜」についての調査を行います。本日は、講師として宮城教育大学非常勤講師、民俗研究家の結城登美雄先生をお招きいたしておりますので、御紹介いたします。
○結城登美雄参考人 結城登美雄です。よろしくお願いいたします。
○高橋博之委員長 結城先生の略歴につきましては、お手元に配付いたしているとおりでございます。本日は、「限界集落の可能性」と題しまして、本県山形村のバッタリー村の状況を交えながら、いわゆる限界集落で活躍する若者たちのお話をいただくこととなっております。
 それでは、これから結城先生のお話をいただくことといたしますが、後ほど質疑、意見交換の時間を設けておりますので、御了承願いたいと思います。それでは、結城先生よろしくお願いします。
○結城登美雄参考人 おはようございます。仙台から来ました。こういう委員会で話すのは初めてなものですから緊張しております。15年ほど東北を中心に中山間地をうろうろ、うろうろ集落を訪ねてまいりました。
 日本という国は、明治元年にどういう国だったかというと3,000万人ぐらい人口があったそうですが、そのうちの9割、2,700万人は農村に住んでおったと言われております。農村の数が7万1,314、江戸が100万人都市として一つあり、あと5万人以上の都市というのは仙台も入りますが、八つしかなかったのです。要するに、日本は7万1,314の村の集まりというふうに考えることができるわけです。
 それが近代の中でさまざまに変化していきまして、今は1940年代以降の工業化、都市化ということで集中していくことによって、過疎であるとか、さらにはその延長上に限界集落と言われましたが、そこを15年間歩きまして、7万1,314のうち、なくなった村もありますが、今なお健在であるというふうに思っています。
 ただ、人口が減った、高齢化した、これは避けられないことであります。どの村も今日で言えば大字に、当たるところが大体村の原形だと思います。その大字は消えているところは地名改正なんかでありますけれども、そのコミュニティは薄れたとはいえ、おらほの村という意識で、依然として私はあるのだろうと。ただ、それを弱まる、消えゆく村ととらえるか、何百年も村を村たらしめた力は一体何であったのか、それが現在何が足りなくてこのような問題になっているのかという村の内側からきちっととらえ直していくということが限界集落であれ、過疎であれ、求められるのではないかと思います。
 戦前までは自治というものはもちろんありましたけれども、村のことは村自身でやるのだという基本がずっとあったわけでありまして、今日のように地方自治体の制度がしっかりしてくると、ついつい行政任せであるなどと村はとらえられるようになりますが、生き暮らしてきたところ、そしてなおこれからも生き暮らしていくところのさまざまな悩みや課題、あるいはそういう人たちが抱いている願いや期待というものをきちっと受けとめて、その解決や実現の主体は村人自身であるという、当たり前といえば当たり前のその視点を忘れないで、私は限界集落と言われている問題に対処すべきではないのかなと考えているところであります。
 そういう意味で、あえて「おいおい」と言われそうなタイトルですが、限界集落にはどんな可能性があるのだと多分思われると思いますし、と同時に若者たちとそういう村との出会いによって出てくる希望について、まだささやかではありますけれども、可能性として受けとめていただければと思い、これから説明をさせていただきます。
 当然これもう皆さんずっと調査されておられるのでお分かりかと思いますけれども、言葉が独り歩きしているきらいもなきにしもあらずでありまして、非常に刺激的な、大野さんの意図を超えてメディアの方なんかが特に大きく取り上げ、それが影響して、言葉の持つイメージから限界集落というのが今話題を呼んでいるわけですが、単純に言えば年寄りが多くなった集落だと思います。私はそれは当然のことだろうと。
 都市に目を転じれば、多分個別に地域見ていけば、都市でも同じように限界集落と言われるようなところは常にあります。例えば松園団地とか、私がおります仙台の昭和43年ぐらいにできた団地がたくさんあります。都市計画法が変わって。ここなどは、あえて申し上げれば限界集落団地というふうに言ってもいいようなところがざらにあります。
 要するに、都市のほうも単純に言うと限界集落化しているということです。だから、何か特別に中山間地だけが限界集落というふうなとらえ方よりも人が老いていってその比率がふえることはある意味で当然のことだと。だから、それを大げさに騒ぎ立てるところから議論を始めるのは余り賢明ではなかろうというふうに私なんかは思っているわけでありまして、ただ調査なんかだとどうしてもこういうふうになるわけですね、困ったと。
 大体困ったと言えばよい仕事もありますから、テレビなんかは特にそうです。衝撃の事実だなんて言ってしまえば、どこが衝撃だと、当たり前ではないかというふうに私などは見ていますが、いずれにしてもそれは問題ないということではありません。ただ、大げさに受けとめるところからもっと当たり前の人間の暮らしの問題、生き方の問題として受けとめる視点が必要だろうなというふうに思っております。
 これは小田切さんという私の仲間ですが、明治大学の小田切徳美教授が中山間地で発生している問題をまとめたものの一つです。
 では、そこのところで何が今あるかというと、耕作放棄です。当然今日言われている限界集落は農山村になります。あと空き家、森林荒廃、病害虫発生、これにもう少し後から出てきますけれども、実は重大被害が非常に多く出ております、ごみの不法投棄。
 伝統的祭りがなかなか人がいないので、年とったのでできないとか、冠婚葬祭が難しいとか言われています。その記事を書いたり、報道したり、あるいは研究している人たちは本当にその村に入って、本当に不自由しているか、しっかりと腰を落ち着けて受けとめたというふうには必ずしも言えないと思います。
 住宅の荒廃、これは何も少子化というのは山や農村だけではありませんので、そういう意味で伝統的生活文化の衰退というのは、これは人口が減ることや高齢化とも当然関係ありますが、40年代以降のある種の価値観の変化も相まって、今に始まった衰退ではないと思っております。
 ただ、僕は限界集落の問題を考える場合に、私たち外側から見る人間として、そこの問題を考える場合に、もう一つその人たちが日々の営みとしている問題としては、私たちの食べ物をつくってくれる人たちなのだという位置づけがきっちりなされないといけないのではないかなと思っています。農業あるいは林業、漁業だったり、日本人の食べ物をつくる仕事をやっていらっしゃる方々、特に中山間地とか、面積においても、生産量においても3分の1以上の食料は中山間地の方々がつくっていただいているわけでありますから、その視点から見たときに、私は限界集落が困るという問題と、もう一つ限界集落が消滅なり、衰退することによって困る問題の陰に、私たちの食べ物の問題が困るということ、これは自給率と表裏一体の問題だというふうに思っております。
 今の日本の農業というのは、実は自給率低い、低いとおっしゃる方々に特に言いたいわけですけれども、70歳以上が農業就業人口の45.24%を占めているということです。後期高齢者の医療や制度についていろいろおっしゃる方々も日本の農業の半分近くは70歳以上の方々が担っているのだという問題を受けとめてはなかなかいないようであります。
 もっと言うと、60歳代以上というふうに考えると、合わせて70%が日本の農業、漁業、食料を支えているということの現実、これがいわば社会的に限界集落を特殊な問題とか、困った問題だととらえる以前に、私たち自身の問題だというふうに受けとめる必要があるだろうなと思っております。
 なお、39歳以下はこれだけでありますから、今後10年後の日本の食料はどうなるのだと考えたときに甚だ心もとない状況。だけれども、真剣にこの人たちが平場の都市的農業地域も含めて、特に中山間地はこういう方々によって今の日本の食料の3分の1が担われているというようなところもやっぱり考慮すべきではないかと思っております。
 漁業もこの間ストライキがありました。限界を超えているわけです。同じように老人たち、あと女性がこのぐらいを占めております。4割は60歳以上であります。212万470人であります。大体毎年8,000人ずつやめていきますから、あと20年後には日本には漁民がいなくなるというふうに言えなくもないわけであります。漁業の限界集落が消滅するというふうに言うことは、私たちはまだ魚食民族として幾らあれが食べたい、これが食べたいと言ったって難しくなってきていることともかかわりがあると思っております。
 僕はこの15年間、600ぐらいの集落と3,000人ぐらいのおじいちゃん、おばあちゃんを中心に話を伺ってきました。あえて取りえと申し上げれば3,000人の話を根ほり葉ほり、聞いてきたということです。
 これは山形のある地域の田んぼで標高700メートルです。いつも畦畔きれいにしておりました。69歳の方に12年前にお会いしました。毎年毎年通い続けています。最初はこんなところだったのですが、今はうっそうとして田んぼは見えません。でも、かつて40戸ぐらいの集落、今9戸ですから、最後の田んぼだというふうにして耕しておりました。
 次は田植えの後ですね。減反をこんなところまでさせるのかというぐらいここも減反になって、なかなかお国の制度というのは大したものだなと思いますが、私が気になるのはこの小さな丸い田んぼであります。几帳面に手入れをされておりますが、その方によれば、それでもこの田んぼは300年前に先祖が開いた田んぼだと。かわいい田んぼですねとのんきに私が声をかけると、この田んぼから私の家族の1日分の米がとれますとおっしゃっていました。家族1日分の米、それを300年つくり続けた田んぼということになります。そういうものが東北の各地の限界集落や中山間地。簡単に遠くから耕作放棄、怠け者みたいなふうな言い方は必ずしも当たらない。
 家族1日分の田んぼが昨年の6月9日に来ましたらこんなふうになっていました。美しかった、丁寧に、丁寧に300年耕された田んぼが、耕作放棄地に。私などがずっと見てきたところであります。気がつけばこのおじいちゃん81歳です。69歳でお会いして81歳、ちょっと私も感傷的になりました。ことし訪ねていったら、奥様が80歳でお亡くなりになって気力を失って、情けない、申しわけないということでありました。
 今大事なのは、耕作放棄地が増えているのではないか、大変な問題だ、百姓、怠け者だみたいな視点ではなくて、ぎりぎりまで耕し続けて、そして倒れたのだと。その場所に立って田んぼのこと、米のこと、食料のこと、村の暮らしのことを私は考えるべきであろうというふうに思ったりしました。
 すぐ近くも、私がこれ昔借りていた田んぼなのですが、気になって行ってみましたら、こういうところが、なかなかつらい風景が、先ほど冒頭に耕作放棄地が一番に挙げられていた姿を私もこの15年間たくさん見てまいりました。思うことは何かというと、これも実は棚田百選に選ばれた山形県大蔵村の棚田であります。棚田百選に選んでみんな写真撮りには来ますが、米は一粒も売れないわけです。70歳以上が大半でありますから、あと7年後にはほとんど7割ぐらいが耕作放棄の可能性大だと思います。これは私たちの調査で分かりました。
 それに対して、頼むと言ってもこの米価ではどうしようもないです。そのときに、私は思いましたのは、先ほどの小さな田んぼが消えていくのも自然は寂しいと、宮本常一という方がちょうど過疎法、山村振興法が出るころに日本じゅうを歩きながら村を離れて都市に急ぐ人々の後ろ姿を見ながら、引きとめるすべもなく、これは困ったな、どうしたらいいものだろうかというときに、メモに書きとめた著作集は膨大なものがありますが、それにも入っております。このときに「自然は寂しい」と言ったと。
 この方は大変強い方です、宮本常一さん。私のように感傷的にならずに、「しかし」と切りかえる力があります。限界集落の問題もこの「しかし」と切りかえるところから見ていくべきだと思っています。それで何をおっしゃったかといえば人の手が加わると温かくなると。この自然は限界集落といい、過疎といい、高齢者といい、何でもかまいません。寂しく見えます。しかし、人の手を加えて温かくして、どういうのが温かくなることなのかを、私たちは考えるべきではなかろうかと思っています。
 この村の小学生14人に授業をいたしました。「おじいちゃんたちもう田んぼやめるらしい」、「どうして」と、そんなやりとりから始まりまして、田植え、稲刈りを手伝えばよいというそんな話もありましたが、決してそれだけではない。田植え、稲刈りの手伝いがあればやれるという問題ではもうないと思っています。これに対して、子供たちがいろいろ考えてやったのは畦畔にペットボトルにろうそくを立てて何か刺しておりました。それを孫たちが見に来てねとおじいちゃんたちに声かけると。畦畔使うというからみんな刈ってくれたのですな。こんなふうに大人も少し手伝いながらやりました。3年前の8月8日でありました。ちょうど今ごろであります。
 夕暮れになって火をともしました。こんなふうになりました。30分ぐらいたつとまた暗やみが深まってまいります。おじいちゃんたちがつえつきながら、この棚田の周りに行きますと日はとっぷりと暮れて、こんなふうになっております。それで言うことにはおじいちゃんたち、おばあちゃんたちの会話であります。ありがたいものだな、おれたちももうひと頑張りせにゃなるまいなということであります。
 今限界集落を超えていく力は、外側の予算や制度というものもありましょうが、自分たち自身でもうひと頑張りせにゃなるまいなと思うその気持ちというものが私は重要であると思っています。そういう場所に立って限界集落を考えるべきではなかろうかとさえ思うわけであります。
 そういう動きの中で、新潟県上越市、合併して12万人ぐらいのまちになりましたが、ここの直江津のところから山のほうに入りました、14キロぐらい入りましたところ、ここに約17の集落、1,000人ぐらい住んでいる桑鳥地区というところがあります。あの辺は谷筋にいろいろ集落がありまして、その集落の最北のあたりです。ここはその中の中ノ俣という集落で50戸、92人の村であります。ひとり暮らし20世帯、一番若い夫婦60歳、限界集落のデータからいえば消滅するだけだというふうに分類されるのかもしれませんけれども、実はここが大変明るい。この明るさが気になりまして、何度も何度も通っております。この明るさのもとに都市から集まってきた若者たちの力があるのではないかと私は思っております。
 この棚田です。450メートルぐらいあると思います。これは横畑集落という8戸15人ぐらいです。かつて40戸ぐらいあったのですが、今残っているのは8軒だけです。ひとり暮らしが半分以上です。そこの横畑の観音像のところでおばあちゃんが汗ふいている。このおばあちゃんにいろいろ話を聞きます。お地蔵さん、これは村の田んぼ道でありますが、ここをおばあちゃんがやってきまして、向こうの集落から観音様の花を切らしてはならぬといって2日に一遍お花を供えにやってくるわけです。
 この方はもう90歳近いですが、一人で頑張っていろんな野菜を今でもつくってらっしゃいます。86歳のおばあちゃんが田んぼの管理をしています。
 この方も80歳を超えていますが、もう前タイヤ3回取りかえ、後ろのタイヤを5回取りかえるぐらい耕運機を使って暴走族のように元気に運転しています。
 すれ違う村人の笑顔が私は大変印象的でありました。この方、先ほどの方は六十七、八歳の御夫婦ですが、この方はお一人になられて、山を荒らしておけんわいと言って、一人でてっぺんのところまで登ってきたところです。ヨモギをとってモグサの材料として、キロ390円、あと20円高くなれば言うことないのだがと言いながら一生懸命仕事をされておりました。
 こういう若者がこの中におります、合わせて9名。NPOであります。地元の方々が半分以上の理事をやり、外から入ってきた方も一緒に理事になって、彼らはスタッフでありますが、9名のスタッフです。30歳前後です。いずれも別にこれは学歴は関係ありませんが、みんな西ドイツで勉強したり、国立公園に勤めたり、環境というものを勉強された方が割合多いわけですが、日本というのは不思議な国でありまして、世の中みんな環境が大事、学校でも言い、家庭でも言い、テレビも新聞もみんな環境、環境と言いながら、その環境をよくする仕事はこの国のどこにあると考えたときに、若者たちは戸惑うわけです。だから、ドイツに行ったり、アメリカに行ったり、イギリスに行ったりして、日本というのは口だけ環境なので、それをよくすることの仕事はない。そんなこともあって、この子はもう7年目に入ります。
 これは、棚田が荒れていきますので、これを上越市民に働きかけて棚田の保全をやる、いわばインストラクターみたいな役割をしています。なかなか長靴も板についてきておりまして、こういう方に支えられて棚田は見事に今は保全されているところです。と同時に、棚田の維持について、環境の大事さについて、廃校を利用して地球環境学校というものを上越市が、教育委員会が開いたのですが、予算がなくなったせいか、彼らに指定管理者で委託をして、以来年間6,000人が地域の集落の方々を先生にしながら彼らがコーディネーターをして6,000人の活動を今やっているわけであります。
 これは僕が行ったときの、みんなが棚田で草を刈ったり、草取りをしたりしている姿であります。終わると、やっぱり子供たちも参りますので、そうしますとこういう流しそうめんだとか、50戸の60歳以上しかいないような村が非常に日常的ににぎわっています。夜になるといろんな作業をやるとやっぱり村の人たちと若者たちが一緒に宴会をやっています。
 これは市民の森という、かつてゴルフ場開発で反対に遭って市が買い取ったところ。しかしその維持をどうするか、市民の森にしたのですが、彼らが委託を受けまして管理をしています。ここで、市民が年間3,000人ぐらい森林体験なりいろんなことをやろうやと。
 この中の活動を、ことし入った新人ですけれども、きちっと刈り払いの研修を村人と一緒に受けているところです。それから、同じように7年目ですね、この方と、もう一人と3人でこの270ヘクタールの森を管理しています。
 そこの閉校になった学校を事務所にしながら近所の仲間のおばあちゃんとそうめんでも食おうかみたいな、こういう日々、あえて申し上げればお茶飲みをしていると申しましょうか、一番最初は戸惑って、おまえさんたち、うさんくさいなというところから当然始まるわけですが、いずれ申し上げますが、若者たちが一生懸命に村に入り込もうとして通えば、「まあ、上がれ」、「飯でも食っていくか」、「飲むか」、「泊まっていくか」というふうに心が打ち解けていきます。そうすると、おまえさんたちがいてくれるから、例えば彼女らも都市にいるときは他人の家の明かりがどうなっているかということは何一つ気にならなかった。だけれども、この村に住み始めて、この村の人がみんな、電気が夕方になってもついていないからどうしたのだろうなと気遣うような、そういう人たちの姿に接しながら、自分たちもまた他人を気遣うような視点の影響を受けて村とは何か、一緒に暮らすとは何かということを若者自身も学びながら気遣うというふうに変わっていきました。
 どんな仕事があるだろうかということで、これだけ彼ら2人でこなしております、全然暇ではありません。一生懸命です。牛がおれば鼻どりをして田植えを一遍やってみようやとか、縄ないからいろんな物づくり、そういうことの中に自然を生かす、自然を大事にする思想なり考え方があるのだということで、それを市民と一緒に経験の場をつくっていくということになります。
 こんな事務的なものもある。彼らは「手紙書いてくれ」とか、「コピーとってもらえるか」とか、「ファクスで送ってくれるか」、「メールで送ってくれるか」と年寄りから頼まれるのはうれしいけれども、それ以上に村の一員だというふうに認めてもらうのがありがたい、一番うれしいと。そういう自分たちが持っているパソコンの能力。村の一員としておまえがいてくれるとうれしいなというふうに思われる、そういう村人になろうとして5年、6年と、今なお、月給、当初5年前、14万円でありました。
 今は16万円から19万円であります。その金額を低いと言うか、高いと言うか、それはさまざまでありますが、今、日本の勤労者人口で見ますと、全給与所得者数5,400万人と言われておりますが、この5,400万人のうちの33.5%、3分の1は非正規雇用であります。しかも22.8%、1,200万人は年収200万円以下であります。その大半が若者であります。いつ首切られても仕方がないような、そういう中に自分の人生をどう託せるのでしょうか。
 都市というものの過酷な状況に若者たちがここに自分の人生を預けておいたらどうなるというひずみを感じる。この人たちが自分たちの存在なり、力なりを受けとめてくれる、それが農村ではないか、山村ではないのかとたくさんの若者が今、実は農山村を目指しているにもかかわらず、私たち大人のほうが、なに、どうせまよいごとに違いない。どうせすぐ出ていってしまうに違いないと、この中ノ俣の年寄りたちも最初はどうせ出ていく人間にお気軽に村のことを相談してたまるかと思っていたのが、1年たち、3年たち、5年たち、おれたちよりもあいつらのほうが村の将来をよく考えてくれていると、こんなふうに変化してきています。
 さっきの問いです。これは毎朝の風景であります。勤めに行く若者と花を供えに行くおばあちゃんが路上で出会って、この雰囲気がこの村を明るくしているなと感じました。こんなふうな村ならと、私も何か心引かれるものがあって、何度も何度も通っています。
 そういうことで、この岩手の宮守であるとか、そういったところにも来ておりますが、NPOの地球緑化センターがやっている緑のふるさと協力隊という制度があります。自治体が受け入れてくれて、住まいと月5万円の生活費を支給するだけでありますが、1年間農山村で研修といいますか、仕事をやります。直売所のレジもやれば、森林の手入れもやれば、役場のほうからの指示で仕事をやって14年になります。そこのデータであります。参加した年齢の76%が20歳代、17%が30歳代、この20歳代、30歳代が圧倒的に多いです。参加前にはどのような人間だったかというと、さまざまでありますが、大学生、専門学校、会社員、アルバイト、もちろん公務員もいますし、こんなふうにさまざまであります。
 今人生の始まりに、働いても、働いても豊かになれない貧困層のことをワーキングプアという言葉で呼ばれるようになりましたが、それよりも自分の人生を託す仕事の場がないということです。いつでも企業の勝手な思惑で、もう来なくてよいという、そんなところ に人間としてどんな将来を託せるでしょうか。
 動機としては、彼らはこれから目指す仕事に生かしたい、生き方を考えたい、進路を考えたい、自然と触れ合う体験をしてみたい、自己鍛錬、自立の道を広げたい、農林業や山村の社会に貢献したい、そんな理由であります。
 これは最初の、ずっと通年で14年間の変化ですが、どんどん増えているのです、女性が半分です。ここから減ったのは、自治体が予算がなくなって受け入れをしなくなったから減っているというだけの話です。あれだけの医療費なり、意欲ある若者たちの5万円さえ難しくなった地方財政ということになるのかもしれませんが、いずれにしてもそれでもなお若者たちは、本当はこの3倍、5倍の申し込みがあるのです。平成6年度から平成19年度までの14年間の間にこれだけの384人が1年間毎年毎年現地で普通の若者のような経験をしている。途中であきらめてやめたのは、14年間で12人でありました。受け入れ市町村が273市町村にトータルでなります。
 終了後にどうしたか、1年で戻ってどうしたかというと農山村に定住が35%です。私たちは、定住社会をどうつくるかとか、さまざま考えていますが、ここにはささやかな定住の芽が、あり得ない若者の姿として発芽があるような気がいたしました。もう一遍戻ったり、職場に再復帰したり、別の仕事についたり、学生が復学をしたり、今実は模索中というのが2番目に多い。若者としては、むしろまっとうな模索だと思っています。これを簡単に評価してはならない。この模索の中には、農山村で自分の力を発揮し、自分の生きる場所にするために何か足りない。何が足りないのかは多分若者たちと話せば出てくるはずであります。
 そういう意味で、いろいろこういうのを見ていきまして、この種の限界集落というものを若者との出会いあるいは協働という視点から見直していくことはできないものだろうかというふうに考えるに至った次第であります。
 これは遠野から釜石のほうにある峠を越えて青ノ木というところであります。ここなり岩手を歩くとよく思うのですが、美しい国なんていうことを言った方がおりましたが、私もレクチャー頼まれましたが、そのときに申し上げた美しい国はわかりますけれども、私は美しい村はどういうものかというものを少し考えました。よい村と呼んでもいいかもしれません、あるいは人間にとってこういう村でありたいという理想像です。美しい村など初めからあったわけではないと。
 美しく暮らそうという村人がいて、それを積み上げて美しい村になるのだということです。国が予算を、制度をつくれば美しい村になる、それがつまり美しい国になる。そうではない。美しく生きよう、よりよく生きようとする村人がいて、村は美しくもなり、よりよくもなるのではあるまいかという視点を忘れるべきではないと私は思っております。
 皆さん御承知の、20年私もこの村に通わせていただいております。20年前にお会いしました。これはバッタリー村。小さな沢水を動力に変える知恵ということです。水車は中流域の水量がある程度豊富でなければ水車は回りませんが、ここは水車は動きません。だけれども、それをちょろちょろ流れる水を動力にするという役割、小さな力を大きくするというバッタリーの心というものを名前にしたのだと思われます。
 この方はまだ若かったですな昔は。今は随分老けました。余談ですが、それは牛のえさかいと言ったら、自分が、人間が食うのだと言っていました。そして、しみいもをつくって、フリーズドライにしてちゃんとやりますね。こういう知恵の世界を若者たちは非常に関心を持って今見詰めています。買う力というものだけを求めてきた日本、買う力が衰えたのは不景気だと呼んでいます。買えない者を貧しいと言います。買えなければつくる。自分に必要なものはつくるのだと、つくる力を身につけたいのだと若者は考えております。
 私はここの昭和60年7月14日に、もうおりようと本当は思っていたバッタリー村、当時5戸18人の方々が毎日話し合いながら、それでも不安だから、この村の与えられた自然立地を生かし、この地に住むことに誇りを持ち、一人一芸何かをつくり、都会の後を追い求めず、独自の生活文化を伝統の中から創造し、集落の共同と和の精神で生活を高めようとする村であるという、この宣言を今から20年近く前に見てびっくりいたしました。
 今僕は見なくても丸暗記しています。この中に地域はどうあったらいいか、村がどうあったらいいかというもののすべてがあるような気が僕はなおしています。そういうものに反応してこういうものをやれば、これは岩手大学の学生ですから、2泊3日ぐらいして、あそこにノートがあります。40冊を超える、学生たちが書いていったノートがあります。そのノートを見れば、今若者たちが何に迷い、何につまずき、何を求めているかがわかるような、そういうモノローグをつづったノートがあります。
 例えば人は一人では生きられないということを書いていたわけであります。そういう言葉に出会うと、私たちが次の若者たちに示していく方向は、必ずしも都市的な方向、企業的な方向だけが豊かさの道ではなくて、道は農山村にも人生の道はあるのだということを受けとめてくれる若者たちは今育っているのではないかと私は思っています。
 不思議なことに20年間行きますと毎年変わっています。特にこの四、五年は行くたびに美しくなっています。温かくなっています。
 この村は与えられた自然立地を生かし、ここではないどこかにいいところはあるだろうが、しかし、おれたちに与えられたのはここではないか。ここの自然立地を嘆かずに寒さがあろうと、お米はつくらなくてもここはここのよさを生かそうではないかというスタンスです。この地に住むことに誇りを持ち、今の方の父さんにも生前に何度かお話を伺いました。こういうふうに町には町のよさがあるだろう、山には山のよさがあるものだと。私たちは、町のよさに心を奪われ、山には山のよさがあるということをしっかり見詰め、受けとめてきただけと自分自身反省しているところ多々あるわけです。
 一人一芸何かをつくり、経済力を高めるということは願うにしても、経済力が得られないことを嘆きに終わらず、それぞれの持つものをつくる力を高めていこうと、この精神を学ぶべきだと思うし、都会の後を追い求めずと、大変難しいことであります。いつでも自分たちの暮らしが貧しいのではないかという、そんな映像しか流れてこない中で、いや、ここにはここのよさがあると考えることの大切さ、都会の後を追い求めずという中に込められた思いが私は大事なのだと。
 独自の生活文化を伝統の中から創造する、そういうところに年間2,000人ぐらいの人が訪れています。
 最も大事にしたいもの、それが集落の共同と和の精神だということです。これをないがしろにしているところが多いわけです。みんなが話し合って寄り合いをする、そうすれば相手がわかります、人間は完璧な人間が集まって暮らすわけではありません。欠点もありましょう。考えの違いもありましょう、価値観も違いましょう。収入も皆違うけれども、同じここに生きる人間としての理解がまずベースにあれば違いは違いとして認め合えるというところがあるのだろうと思いました。何よりも生活を高めようとする村だということであります。孫に励まされて、もうひと頑張りというのもそうなのかもしれません。
 沖縄のほうでも同じように、私は今から五、六年前に頼まれて沖縄に長寿社会を生きるための一番大事なのは何かを調査しなさいと言われて50人の90歳以上の沖縄のおじい、おばあを調査しました。食べ物のことを一番大事なものかといったら、食べ物は別に普通のものを食べているよと言っておりました。特別何か健康食品を食べているわけではない。余り僕がしつこく聞くものだから、本土の方は食をどのように考えているかと。いつもテレビで見るが、すぐ袋を手に取って、裏返して疑わしそうに見ているねと。あれは本当に品がなく見ていると104歳のおばあに詰問されました。恥ずかしかったです。
 食とは何か。沖縄では「ぬちぐすり」と言っておりました。命の薬である。その命の薬を他人にゆだねて不平、文句、疑惑ばかり持っている本土の人も、そんなに疑わしいなら、なぜ自分でつくろうとしないのか、これに今の日本人答えられる人は少ない。なぜ疑わしいか、そんなに大事なものなら自分でつくろうとしないのか。これを受けとめるのが今の若者たちであります。すべてとは言いません。まず、自分の食べ物を自分でつくる。その場所としての農地、集落、それで農業を拡大させたいのではないのです。生殺与奪権をほかに牛耳られてしまわないで、生存の第一条件の食べるというものを自分の我が手で持ちたいものだというモチーフが頭の中にあります。
 それから、祭りなんていうのもどこもそうですが、みんな風をちゃんと、雨が潤うように風が吹いて雨が適当に降る、こういう願いですね、五穀豊穣、日本人は変わらぬと思いました。
 これが沖縄が大事だという限界集落に対するアドバイスだと私は思っております。まず、「あたい」を持ちなさいと。「あたい」とは家の周りにある家庭菜園みたいなものです。自分の家族の食べ物は我がそばの庭先の畑で育てる。それを持つことがまず安心である。「ゆんたく」とはお茶のみのことであります。「ゆいまーる」は結いのことです。お互い様の共同作業や相互扶助。あともう一つ「てーげー」というものがありますが、余り面倒くさく考えるなと、神経がおかしくなるぞと、「てーげー」、アバウトでいいよと、人生「てーげー」のほうがよっぽどいいと思うのです。
 「あたい」とはこういう家のそばにある菜園のことです。沖縄ヤンバル北部地方の過疎地帯と言われているところの「あたい」です。
 これは国頭村のそれぞれの家で、まずこれがそばにあることが安心です。人にゆだねないで、まず自分で最初につくる、足りないものは買いに行く。それで余ったものを交換する、今日で言う直売所であるとか、市というものになるかと思います。「ゆんたく」というのは、こんなふうにゲートボールも含めておしゃべり、お茶飲みということです。これが意外と大事なのです。みんな用あるときだけ話をして、顔を合わせなくても電話で結構だ、インターネットで結構だというふうになりますが、いろんな意味でおしゃべりだと、人間としての相手を理解しということになるわけです。案外昔の人は暇でお茶飲みをしたのではなく、お茶飲みをしながらちゃんと大切なものを交換していたはずであります。
 104歳のおばあです。ここでは毎朝24軒の家からここに集まってきます。78歳のお嫁さんが沖縄茶をやりながら毎朝にぎわいます。365日、台風のとき以外みんな「おはよう」と朝はやってくるのです。それでお茶飲みながら、例えばだれかが、おばあがかま持ってきて「グラグラするんだがな」と言えばおじいが「何だ、くぎが緩んでいるわ。わしが直してやる」と、「1時ぐらい、午後の一番ぐらいに直しておいてあげるからとりに来い」とかと言えば、おばあの悩みが解決するのです。「だれかキャベツの苗、五、六本余っていないかな」とだれかに言えば、「わしのところにあるからとりに来な」といえば、それで解決するわけです。だれかが「あれっ、このごろあのおばあがいないね」と言えば、「どうしたんだろう」と、「なあに、ひ孫の顔を見に行って三、四日行ってくると言うから、もうすぐ帰るよ」と言えば、「元気なんだね、また会えるね」とわかるわけです。朝毎日のミーティングみたいなものです。30分のお茶飲みの中にその日の困り事、悩みがすべて地域の力で解決していくわけです。そういう「ゆんたく」というものの場です。
 「ゆいまーる」は、もうこちらでもあるのではないか、雪かきの結いもありますし、これはおばあが入院したからみんながここを管理してくれているのです。もちろん共同作業で草刈りもあります。読んだ本が要らなくなれば、それを必ず、書斎なんてつくる人はいません。全部持ってきてお互いだれか自由に読める文庫ができ上がっている。
 その最たるものが、店はたった1軒だけ、みんなが出資、全戸出資の共同店というものです。生協と農協と漁協と森林組合の機能をあわせ持ったところです。ビゲンヘアカラーも売っていれば、農具も売っていれば、郵便ポストも直売所も兼ね合わせたような村のみんなが2,000円ぐらいずつ出して出資してもう100年続いているところもあります。
 これは、野甫島というところの48戸の集落の共同店です。売るものは大したものではありません。100年の沖縄のトラディショナルなコンビニと言ってもいいかもしれません。全部ここはツケがききます。ツケがきくというのは、私も飲み屋でツケがきかないぐらいですから。よほど信用されております。ここは村人が信用で半年後に支払えばいい。サトウキビがとれたら払うとか、出稼ぎの金が入ったら払う。日常、お互い信頼しながらこういうものをやっている。
 値段は少し高いです。高いですが、利益が出ればみんなが必要なものをこの利益の中から100年かけて診療所を建て、製茶場、かつては発電所も建設しました。僕らはどこかの流通に惑わされて、10円安かったと、自分だけが得して、自分だけの得ではなくて、少し高いビール。104歳のおばあはビールをいっぱい注ぎながら飲め、飲めと言うから、高いビールだからと言うと、あんちゃん、高いビールはうまいのだと。高いのはなぜうまいか。そこから得られた利益がみんなの村の必要なものに生まれ変わるからです。そういう沖縄というものが持っている力というものを感じた次第です。
 ですから、今でも100年共同という発想の地です。1906年であります。昨年100周年やりました。製茶場もつくりました、精米所も運送業、船も買いました。トラックも買いました。製造、泡盛工場も買いました。発電所があります。金の貸し付けもしています。出資という運営型の小売りの利益を、株主配当とは違います。みんなで話し合って、みんなの力を持ち寄れば大きな力になるのだなと。このごろ地域通貨なんて言いますけれども、もう既に大正のころにこういうものをちゃんと沖縄では必要だから地域通貨を発行し、それはどういうことかというと、お互いの労働を評価する。社会の市場経済はキャベツをつくってもだぶつくというと30円なんかに値段下がります。そのときに、村の人はおまえのキャベツは頑張ってつくったから、おれは50円で買うよと、相手の仕事を評価する。それがバランスが変わってくると、また日本国の金額になりますが、調整する力を地域通貨に託してみようと。
 「平和共同」、沖縄で一番大事なものは平和ではないのです。こんなことをいつまでも刻まなければならない沖縄は嫌なのです。だれが沖縄を平和というふうに刻ませたかと私は問い詰められましたが、沖縄の本当の心はみんなで力を合わせて楽しく生きていこうではないか、それはバッタリー村の精神と私は相通ずるものがあると思います。
 そういう意味で、いろいろ見てきてやや結論的な言い方しますと、限界集落を想定して、限界集落がよい地域になるためには七つぐらい考えておかなければならない。小さくても、月々二、三万円でもいい仕事の場がある。何も工場用地で何十万円もらうようなところではありません。村の人々の日々の営みを最大に評価して二、三万円になるような、これをよしするという方々が多いです。よい居住環境があること。それをちゃんとチェックする。いい文化があること。文化は難しい概念でありますが、村のおじいさん、おばあさんたちの言葉で言えば、働くだけではない、楽しみの場がある。働くだけが村の暮らしではなく、働くだけが人生ではない。人はみんなと一緒に楽しむものだというところから祭りが生まれ、踊りが生まれ、芸能が生まれていくわけであります。みんなで楽しむ村、これが文化です。
 よい学びの場、これは知識の学びだけではなく、生かす場なのかなと。地域にある資源を生かすための村、そんな学びの場。何よりも一番大事なのがいい仲間がおるということです。6番目が、大切な自然風土、水と風と光、海、山、川。と同時に、もう一つよい行政であること。よい行政については、私は何とも申し上げません。ただの行政ではだめなのでしょう。よい行政とは何か、これが今行政の一人一人に問われているものだと私は思っております。
とりあえず時間が来ましたので、オーバーしましたが、次のほうのところはお米を中心にした、私が今かかわっております宮城県鳴子のお米で、米づくりがいい仕事にならなくなったのを中山間地の限界集落でよい仕事にするために生産者に5年間1俵1万8,000円を5年間保障し、それを支持してくれる食べている人に2万4,000円で買っていただく、それをみんなが応援しているプロジェクトでございます。これは一関の骨寺荘園の方にも視察していただいて、私もレクチャーでお伺いしたりして、みんなの力を合わせると、それができるものだなと、やろうとする人たちを私たちは応援していけば、限界集落を考える時も同じかなと思って資料を準備しました。
 以上です。どうも熱心に聞いていただいてありがとうございました。
○高橋博之委員長 御説明ありがとうございました。
 それでは、これより質疑、意見交換を行います。ただいまの御説明に関し、質疑、御意見等ありましたらお願いいたします。
○小野寺有一委員 どうもありがとうございました。
 この委員会に所属してからもうちょっとで1年半になろうとしておりまして、視察調査で県内外含めていろんなところに行ってきました。先生が今まで見てこられた数とか、深さとかとは全然違うと思うのですけれども、そこの行った先々で、例えばいろんな努力していらっしゃる、コミュニティの維持とか再生に努力していらっしゃる方々の話を聞いて、我々がいつも思うのは、何て声かけたらいいかわからない。なぜなら、今本当にコミュニティを維持するために物すごい努力をされているのだけれども、もう限界だとみんな言っています。
 要は、これ以上頑張れとも言えないし、「もうゆっくりしたらいいんでねえすか」とも言えないし、例えば僕らみたいな一応有権者の中から選ばれてきた人間たちが、さっき出てきたような田んぼがどんどんなくなっていくところとか、ぎりぎりのところにいる人に行政とか政治の立場として何かしなくてはならないというのは問題意識あると思うのだけれども、まず行って何て声かければいいのだろうというふうに思うのです。アドバイスお願いいたします。
○結城登美雄参考人 多分そういう思いと責任感なり、あるいはいろんな意識が強くお持ちだから、そういうふうに何て声かけていいのかわからなくなると思うのです。
 私も最初気負っておりました。その現状に対して、いろんな原稿を書いて世の中に訴えたいと思っていました。最近少し変わってきました。2年前に行ったところにまた行ったり、去年行ったところにまた行ったりしますと、「また来たよ」と、「上がれ、飲むか」と、こういう話でお茶飲んだりして、「泊まっていけねえのか」と、そんなのが3回、4回続きますと、やっぱりたまに人と話すといいものだなと言うのです。皆さんたくさん話したいこと持っていらっしゃるのです。
 こういうふうに変わるべきだとか以前にどう生きてきたか、ここへ来て今思う喜怒哀楽をまずお互い語り合うという、そんなことが私は大事なのではないかなと思っていますけれども、コミュニティというのは、交流というのはそうあるべきだとか、あるいは論理なり考え方あろうかと思いますけれども。
 それ以前に、いやあ、よかった、よかったという話し合いの場というものを村人同士、我々外から行く人間も別に何か成果を求めてとか、何かできなければだめだとかではなくて、また来たよと。僕は「おめえは来るだけでありがてえ」と言われます。「よくまあ、こんなところに来た」と。「電話来るだけでも、手紙一つあるだけでもおらうれしい」と。
 そして書いたものをコピーとって送ってやる。そうすると、何だかなと手紙をくれたりします。もっと言うと、私は一人ではないし仙台におまえがいるなと、別に血のつながりも何にもないわけでありますが、友達がおるなと。時々しみ豆腐などを送ってくると、こちらもしようがないから笹かまぼこでも送ろうかと。こういうふうにしていつの間にかおつき合いをしていると、そのことが、「おめえが来るとちょっとうれしいな」という、そういうムードが割合大事かなと思っています。
 僕は行って、余り難しい話はほとんどしません。議員の方々となると、議員が来たと、すぐ陳情なんてなりそうだからお互い警戒されるのだと思いますが、私は単なるフリーターなものですから、ただ「おめえに去年頼まれた何とかという種な、ようやっと見つかった」と種を一握りもらったやつを届けたりすると、絶対春にまいてみようとか、そういうことですね。その人の楽しみや何かちょっと余計なお世話をするだけでも。たまに遊びに来てくれるだけでうれしいよというのは何か本当のような気がしているのですが。「随分おめえ収穫したな。わかった。仙台の人間をだましてやるからおれのところに送れ」と言って、3,000円でも5,000円でも売れたよと送ってやると、ありがとうと。その程度なのです。アドバイスになりませんけれども。
○小野寺有一委員 ありがとうございました。
○高橋博之委員長 ほかにありませんか。
○新居田弘文委員 感激しながら拝聴いたしました。先ほど農業を支える年代の話を伺いました。私らも地域に帰りますと、限界集落という言葉自体私は嫌いなのですけれども、国道4号沿いに住んでいますから、比較的いいほうだとは思うのですけれども、それでも例えば地域で河川の草刈りをしましょうという場合は、やっぱり私も67歳になるのですけれども、私はまだ若いほうです、行ってみると。
 もちろんもっと若い人もいます。それで70歳代、あるいは80歳代を超すような人たちも元気で、作業を一緒にやっているのですけれども、そういうことを思いますと60歳、70歳代で、地域によってはまだまだそういう人たちが中心に、農業なのですけれども、いろんな地域とか部落活動ですね、そういうのをやっているのではないかなということと、お話しありました沖縄の「あたい」という言葉ですね。
 私は若いときにはどちらかというと買えば済む、あるいはスーパーに行けばそれで済むような感じをしておりましたけれども、ほとんど猫の額みたいな土地ですけれども、キュウリ3本、5本植えるとか、あるいはトマト植えるというような形で、毎朝手入れの楽しみとか、あるいは収穫の楽しみを味わっているわけなのですけれども、むしろそれを食べられるのが一番ぜいたくだなと、そういう思いでいるわけです。
 もっともっと若い時代からそういう体験しながらやるのがいいのですけれども、なかなかそういう風潮ではなくて、もう便利主義一辺倒になって、それから自由競争経済主義といいますか、そういう形で世の中流れていますので、何かその辺の視点を若い時代から切りかえさせるような取り組みが必要だなと思うのです。
 そういう中で、情報、いわゆる行ってお茶飲んだり、さまざま情報交換することよりもどっちかといえば電話。電話ならまだいいほうなのですけれども、メールとか、私なんかは使えませんけれども、そういうので全部単純化、本当に顔を知らない、情もわからない、言葉と数字だけの世界ですからね。そこが今の世の中の悪い面で、キレるとか、さまざまつながっているのではないかなという思いをします。そういうことで、言いたいのは学校とか、あるいはPTAとか、その辺のこれからの現状をもうちょっと認識してその取り組みをやっていく必要があるのではないかなと。
 あわせまして、特に子供たちに対するおもちゃとか、道具とか、買うのではなくて、昔はナイフ一本で、小刀一つで笛まで作った時代なのですけれども、そういうのがもうなくなりまして、お金で全部処理するような形で親も育っていますから、そこを何か、そうでない昔のような形に、ただ、今はナイフ持ってはだめだというような別な意味のあれもあるのですけれども、何かそういうような取り組みについてのアドバイスをいただければいいなと思います。よろしくお願いします。
○結城登美雄参考人 何か今度文科省が1週間から10日義務づけていますね。あれもいろいろ不安もあるのですが、やらないよりやったほうがいいだろうと。それをきっかけにして、村を考えるときに限界集落ということを社会的言語で語り過ぎると、救い切れないものがいっぱいあるのではないかと思います。どうなのだと、環境にしても今中山間地が逝ってしまうと。もっと個人的な言葉。
 だから社会制度として子供たちを農山村体験しなければならないという、これもまた社会的な言葉ではあります。そうであっても一人のおじいちゃん、おばあちゃんを見て、先ほどの子たちが何で格好いいのだろうと言うのです。こんなの最初に言ったことを言おうと思っています。野良に立って一人くわを振って作物をつくっているおばあちゃん、おじいちゃんは、私は怒られるかもしれないけれども、本当に格好いいと思うのです。
 彼女は分かっていて、それをそのまま「何を若造がわかるか」と言われるの分かるけれども、本音は私もそうなりたいと、そういう力を持ちたいのだということですよね。多分そういう個人的なモチーフを若者も子供たちも無意識のうちに持っておられると思うのです。そういう出会いの場というものはむしろたくさんつくったほうがいいだろうと。
 どんなささやかな経験でもそれを受けとめられる子もいれば受けとめ切れない子供もいることはいますが、僕はいろんな農山村の暮らしと触れ合う場を設けるのは大事だなと、とりわけ子供たちの。9人の上越市の若者たちは、みんなあそこに行って初めて、自分のおじいちゃん、おばあちゃんが昔言っていたことを、村のおばあちゃん、おじいちゃんとつき合って感じるようになって時々帰って、話をぽつぽつと聞けるようになったというのです。自分のおばあちゃん、おじいちゃんに話聞けなくても、村の人には少し聞けるのです。そうしながら今度は自分の祖父母とも近づいていくということがあるようですから、むしろ今制度としての枠組みの前に一人の人生を生きてこられた方々が持っている大切なものを若い世代が受けとめる場、交流というのはそういうものかなと。
 そのために今私がささやかにやっておりますのは大学生も含めて3粒、5粒、10粒ぐらいの種を任せることをやっています。私も野菜つくりできますか、できるよと。種まいて、種まいたら水やらなければだめだよと、ここにカイワレ大根、発泡スチロールにおばあちゃんに土もらったのを入れて、そこにおばあちゃんと同じ種をまきます。それを教えてもらって、それを持ち帰ります。おばあちゃん毎日見回って、生えているか、雨はどうか、君も同じようにしないと枯れてしまうよと。そうすると、それを通じておばあちゃん、おじいちゃんと話をしているような気になるのです。大きくなったとか、虫にやられたとか、いろいろ思うようで。わからなくなったら、そのおばあちゃんに電話しなさいと。虫がついてしまったのだけれども、葉っぱがしおれたのだけれどもと、そんなふうにささやかな場を共有するという意見もあるのかなと思いました。ちょっと答えにならなくて申しわけないです。
○岩渕誠委員 私もこれまで何度か結城先生のお話を拝聴する機会があったのですが、きょうすぐわきでこれまでの中でも最もぜいたくに聞かせていただきました。
 限界集落というか、農業とのかかわりでいいますとヨーロッパなんかも最近ここ10年ぐらい前まではもう土地を捨てて、都会に住まわせて、そこから通いの農業という形で限界集落をむしろ積極的に消滅した形になって、就労の場という形でしか残さなかったというのが一本の政策であって、日本も一時期そういうのを検討した時期があったと思います。
 ただやはり日本の場合は土地と人がセットであるという形にやっぱり戻ってきたのだと思います。だからこそ、今限界集落という問題を正面からとらえて、ではどうやって再生をしていくのかというのが行政上の大きな流れになっているのだと思います。
 そういう意味で、限界集落とは言われるものの、住んでいる土地にやっぱり何がしかの魅力があるということをまず肯定をしてから始めなければいけないと思うのですが、実はなかなか住んでいる人はそのよさというものを肯定できないというのがやっぱり最大だと思います。そこが入り口ですから、そこがすっきり入ってくると次の展開というのが考えられると思うのですが、東北の場合は結城先生を初め、例えば東北芸術工科大の赤坂先生だとか、あるいは岩手だと河野和義さんだとか、地元学ですね、そういう展開をしていろいろ十数年になると思いますが、やっている割にはなかなか進んでいっていないなと。やっぱりそのきっかけづくり、起きあがるほうの起動力がなかなかちょっとないなと思っていまして、それをこじ開けるのは何か別な側面がないのかなというヒントをまずひとつ教えていただきたいなと思います。
 少しそのきっかけづくりがうまくいって入り口からちょっと進んだところにある。やっぱり今問題になってきているのは、地元のよさはわかったけれども、地元のよさを経済的に幾らか、本当にもうからなくてもいいけれども、食べられるぐらいのものにならないのかなというのがちょっと進んだところでは問題になっているところです。それが今結城先生がやっていらっしゃる鳴子のお米のプロジェクト、これは私の選挙区のある一関の骨寺荘園とかも全く同じような形にならないかなということで進めているわけなのですが、ただこのやり方を見ていると価格保証なのですよね。今原材料費が上がってきたりすると、どうしても所得保証というふうにならないと、農業とリンクをした地域というのはなかなか上がっていかないのが一つ。
 それから、もう一つは、実は経済的なものを求めてしまうと、本当の意味では精神的なかかわりの部分での元気さというのを取り戻したくて、その手段として経済的なものを言ったのだけれども、それがちょっと逆になってしまうというケースがあって、限界集落の再生は非常に個々別々で、いろんな問題がオーダーメードで解決しないといけない状況に来ているのかなと思っているのですが、そのあたりどのようにお考えでしょうか。
○結城登美雄参考人 今総務省が集落支援員制度というものをやっていますね。あれは多分限界集落を視野に入れながら集落機能の低下に対応するために小学校区単位なのか、いろいろ方法もあろうと思いますが、集落支援員で人的な対応をしようではないかというふうな制度だと思います。それを1万人ぐらいになるのではないかとか、どのぐらいになるのかというのはこれからにしても、地域としてあの制度を受けとめつつ翻訳をして、それぞれの地域実情に応じた翻訳の仕方と支援員の役割みたいなものを少し、岩手はそういう意味では地元学とかいろんなトライアルしたがなかなか持続できなかったのには、ある専門性だけではなくて、持続的にかかわる人材が確保できなかったことも多かったと。そういう意味では集落支援員制度をそっくりそのままかは僕はまだ詳しくはわかりませんけれども、岩手のそれぞれの集落に翻訳して展開していくというようなことが必要なのではないかなと。
 そういうときにもう一つ気になるのは、御存じのとおり2010年に三つの中山間地に対する法律が方針改正される、あるいは廃止されると予想されているわけですね。過疎法が2010年に期限切れ、合併特例法も同じですし、あと中山間地の直接支払補償もこれもなくなる。僕は、比較的農水省にしては中山間地直接支払いは結構いい機能を果たしたなと見てきた一人で、私も委員なんかもさせていただいていましたので、できるだけこれが限界集落に代表されるようなところとどういうふうな方向になるのか、地域支援員制度、中山間地直接支払い制度あるいは過疎法などをできれば翻訳していく作業というものをこちらも用意しながら、ただ置いてきたものが下にいくということではない何かを持ちたいものだなというのがあります。
 そのときの一つの参考に、先ほどの上越市の例を言いますと、これは私は前から考えておりまして、特別公務員制度というのがあります。特別公務員制度というのは消防団です。これは、法律として地方自治法の中で特別公務員制度という制度があります。
 これは、かつては地域における防災、消防、災害に対する備えということで特別公務員という位置づけでありました。限界集落なんかの動きを見ていますと、もう少しテーマが必要になると思います。そうしますと、防災に関する特別公務員的なもの、もう1点は福祉的な問題、領域における特別公務員制度の必要、もう1点が環境というものに対する、この三つの特別公務員制度というものを生かしながら地方自治体なりに、国が今制定している集落支援員制度あたりとうまくミックスしながら岩手らしい現場、現実に合った、例えば冬の雪かきもありましょうし、ボランティアみたいなものだけに頼るというふうにもいかない領域に人的な、そうしますと若者たちが何をやるかというと、例えば100世帯をお茶飲みして回るわけです。
 おばあちゃんがちょっと買い物が不自由だよと、あるいはちょっと病院に行くのだけれども、車がないといったときに、そういったことに対応して、仮にですが、100戸の集落のおばあちゃんの福祉的な領域のテーマについて、彼が把握する、もちろん個人情報という問題も当然あります。だから、なおかつ特別公務員というのが必要になってきます。
 合併になったときに、現場まで手が届かないという御指摘がよくあります。行政と現場との間をきちっとつなぐ役割もそこにあろうと。そのときのテーマとして、防災、福祉、環境、これを1アイテム5万円としますと15万円です。15万円で年間180万円、それで例えば1自治体に何人必要なのか、そんなようなことを考えるときにしっかりと地域をよくする、あるいはサポートする、あるいは課題を解決する、そんなものを行政と連携しながらやっていく岩手版の集落支援員というのは、もうちょっと今、国が考えるよりも不自由ではない現場に即したものにならないかと。その方が先ほどの交流のための、例えばグリーンツーリズムを活用したものにも当然かかわっていきますし、いろんな部分で人材として各地にいるというのが何か考えられないかなというふうに私などは思っております。
 それで、きっかけというのは、やっぱり気持ちが高まらないとなかなか立ち上がらない、お金があっても立ち上がらないし、制度があっても立ち上がらないし、ここをよくしようやとなるとどうしてもお茶飲みをしながらの、あるいはその支援員的な人たちと一緒に村の寄り合いをやっている間にこうしよう、ああしようという共通した正解はなくて、地域地域の課題的なものとして発露するものだと思います。それと同時に、これはあくまでもアイデアでありますので、限界集落をマイナスととらえる視点ではなくて、限界集落にできたものが、私は「あたい」に代表されるように、まだ家族です。直売所もそうだと思いますが、大規模化するかというとそうはならない。
 笑い話として聞いていただきたいのですが、限界集落ブランドというものが成り立つのではないかと。一生懸命おじいちゃん、おばあちゃんたちがつくった日々のそれのおすそ分けを丁寧にお分けする相手として、あるいはそれの延長上が鳴子の米であります。鳴子の米はおいしかったよと。そうすると、また種をまこう、また苗を植えようという気持ちをサポートするような、ブランドと言っては怒られるかもしれませんので、あえていえばマイナスととらえないで、むしろよい食べ物の代表的なものにまでなっていってほしいなというふうに私などは思っています。
 規模は小さいけれども、限られたものではあるけれども、限られた人にしかお分けできないけれども、とてもよいものであるという、またそういうものをおばあちゃん、つくってよという言葉が届けられるか、そんなのも地域支援員なり農村特別交付金でやりながら若者たちが農業をやりたいときに15万円ずつ3年ぐらいサポートして、あるいは農業の勉強をして、村で農業を始めて土地を借りて1反歩から始めて3反歩ぐらいになっていけば3年ないし5年ぐらいで農業に対する少しイロハがわかって、おじいちゃん、おばあちゃんにも教えていただく。長くこの制度を続けないで、最長で5年で打ち切りたいと思っています。1人、個人に対してですね。制度は続けるにしても。
 なぜかというと、これは言いにくいのでありますが、公務員は長くやるとおかしくなるというふうにも言われます。集落になくてはならない存在となってきたときに、彼らは何人かが集まり、地域の支援なり地域の仕事を協力するNPOとして村から、行政から支援されるような組織、NPO的なものに移行していくことで制度は維持できるのではないかなと私は思っております。
 個人的なアイデアにすぎませんけれども、そういうものもやるべき今機運と体制が少しずつできつつあるような気がするものですから、あえて申し上げました。
○高橋博之委員長 ほかにありませんか。
 (「なし」と呼ぶ者あり)
○高橋博之委員長 ほかにないようですので、本日の調査はこれをもって終了いたします。
 結城先生、大変お忙しいところを本当にありがとうございました。
○結城登美雄参考人 もしあれだったら鳴子の米だけちょっとやりましょうか。きのうも実はいろいろ来られまして、単純に言えばこの問題ですよね、行政問題とか。
 一番気になるのがここです。特にこれです。単純に言いますとこういうことが決まったので、これで鳴子は620戸の農家のうち5軒しか支援受けられないということがわかりました。みんな認定農業者の若者はどうかというと、表向きはこの間地震のありました耕英地区からおりていったところにこういう看板があります。裏では「農家崩れ去っていいさ、国家共々」なんて、冗談じゃないやと若者も思っているのです。親の時代は2万円を超えた米を1万円以下でやらなければならない、倍の面積をやったって、おれたちはやっていけるのかという心配を若者は思っています。そういう意味では、霞が関の判断というのは遠いなというふうにいつも思っておりました。身近にいる我々は何したらいいかということです。
 先ほど言いましたように70%が60歳以上、40%が70歳以上という現実。自給率について盛んにおっしゃいますが、私は食べ物をつくる力、自給力が衰えていくということを懸念しています。自給率39%にみんないきますけれども、本当は食べ物をだれがつくるのかというつくる力が衰えていくということであります。312万人になりました。
 こういうおじいちゃんたちの心境であります。もうやめようかと。でも、荒らしておけないなと、中古農機具フェアを春に行きますとじっと中古農機を見ながら買うか、買うまいか迷いながら1時間、2時間悩んでいる姿をいつもせつなく思います。それで、やっぱりやろうと思って70歳過ぎて、また田植機の中古を買ったけれども、機械買ったのがうれしかったのと違って、このごろはなぜかうれしくなくて寂しく感じると、こういう人々が今心に抱えているものを私は受けとめるべきではないかと思っています。
 農業者人口がこれだけあったのが2007年に312万人、女性が半分54%を占めています。60歳以上が圧倒的に多いです。
 ここが今きついところだと思っておるのですが、もともと農業収入というのは日本の農家の平均としては100万円から多くて144万円にしかなっていません。農家の兼業の仕事で一家の収入をなしているわけでありまして、2000年に828万円の719万円が農外収入であります。ただ、これ以降2008年までの間にこれが減ったということです。工場がなくなる、公共事業がなくなる、それが地方の農村を苦しくしている。その分だけ何とか農業でカバーしようと増えています。3,000人ぐらいしか増えていませんけれども、それでも減るのにこうしてやっている、それが農業者の今の平均的な姿なのかなと思うわけです。これではやれないよと悲鳴が上がるのが、この中でもここに占めるお米の割合、これが1万円以下になりそうだという、そういうことを抜きに新自由主義経済みたいなものを論理にして海外から入ればよいみたいなのに対して自分やらいろいろな者がぶつくさ言ったって現場は何も変わらぬわけですから。漁業は今ほぼ17万8,000人です、なくなってしまうと思うのです。
 家族労働、これ農水省のデータです。最低賃金法がここずっと上がっていきました。これ平成5年です。今時給に換算して時給256円なのです。労働基準法が農業には適用されませんので、労働基準法違反ではありませんけれども、実質的には違反しています。市場経済を唱えるなら最低限最低賃金法をクリアしてから市場経済だと農業に言いなさいというのが私の言い分であります。これがどんどん落ちていく、この過程の中で新しい政策が生まれたということであります。品目横断的経営安定対策ですね。
 あと大きな要素としては、やっぱりここが以前とは違う、胃袋が大きいところがたくさんおいしいものを日本よりも高くというふうになってきます。エタノールやいろいろあります。僕はこれすらも案外難しいのではないかと思っています。
 農家が減っていきます。10年間で全国で344万戸から283万戸、東北は55万戸から46万戸、宮城県も9万3,000戸から7万7,000戸、鳴子は738戸が620戸に減りました。当然水田消えていきますということです。鳴子は3割の水田がなくなりました。当然耕作放棄地が2.4倍、鳴子は4.5倍。私たちはどう考えたかというと、国だけが農業支援の唯一ではない。農業ではなくて、食べ物は私たちだれにでもかかわりがあるのだと。食べる人間はただ金さえ持っていて買えればいい、安全安心だと言っていればいいのか。そうではなかろう。
 食べる人間にも何か自分たちの食べ物に対して関与することができまいかというのがC・S・A、Community Supported Agricultureの略です。コミュニティ、地域がサポート、支えるアグリカルチャー、農業、C・S・Aです。これがスイスとか、今アメリカでも1,300から1,500ぐらいの農場がそういうのをやっています。
 鳴子はこんなふうにいきました。実は温泉の人から鳴子の将来はどうなりますかとか観光協会とかに言われたのですが、私もだんだん嫌みな人間になってきました。これが漁業、農業の衰退減少なのだけれども、観光業も同じでしょうと。10年後の鳴子温泉は荒れ地の中に、やぶをかき分け、かき分け風呂に入りに来る鳴子温泉に生まれ変わるでしょうと言いましたら怒りましたですな、当然。
 私の言いたかったことは、あなたたちは自分たちのよさばかりでいいのだと、隣人としての農家が今どういうところに立っているかを言わないで考えずに、言葉は地域づくりというまっとうな言い方しているが、要は自分の商売さえよくなればいいという、そんな根性であるまいかと思ったので、そう申し上げたと。地域づくりは隣人のことを考えることだということで、おれたち何したらいいのだということで旅館の人たちもかかわってくれました。
 だけれども、先ほどあきらめの話がありましたが、やはり無理だと。農家はなおさら。あきらめてはならないことがあります。失ってはならないものがあるのではないですか。それは食べ物、生命生存のための食料の国家論第1章、ソクラテスであります。それを育ててくれる人々、農民と農地、その中心に米があって、米があったから村ができました。国ができました。水と緑をつくり、文化をはぐくんできたのもお米です。米とともに家族の暮らしと歴史がありました。だから、米を失うというのは何なのか、単なる食い物をパンにすればいいという話ではなくて、私たちの東北にしても、農村にしても、日本が大事にしてきたものを失うことにつながらないだろうかということです。
 一方で、食料危機も静かに進行しています。だから、もう一度生産者、消費者という言葉をあえて使わず、食べ物をつくってくれる人と食べ手が向かい合って、支え合う道を切り開けないかという呼びかけをいたしました。そうしたら、意外なことにと申し上げていいかもしれませんが、おれも何か手伝うことはないかと申し出てくれる方が出てきたのです。
 現行1万3,000円でした、1俵。それを1万8,000円に5年間保証することをやったら、そんなことあり得ないと思って耳かさなかった農家の方は、「本当か」というふうにこちら側に顔を向けてくれました。食べ手の人には2万4,000円に買っていただく。その差額は、ほかに事務経費は大してかかりませんが、その大半はあなた方の農業支援に充てたいのだと。あえて申し上げれば、大きくなって合併していく農協が現場、農家から離れてしまう。
 だけれども、現場に即した小さな、農協とは言いません、僕は農協の存在は大きいと思っています。だけれども、そうならない小さな村単位の幾つかの集落単位の小さな農協の役割をもう一遍取り戻したい。181号という新しい品種をつくりたいと。段階を追って、ことし20年度は10ヘクタール、1人1俵を食べる時代ですから、10ヘクタールから700俵というのは700人分の米だから、私がやるべき仕事、私たち米にかかわらない、農家でない人間は700人の食べてくれる人を説得すること、わかりやすく言えばだますことでありますから。だから、皆さん喜んでだまされていただいたのです。半分以上もう売れています。100ヘクタールまではどんなことがあってもやっていきたいと思っています。
 こんな雪解け水の映える山間地420メートル、有機、無農薬は一切言っていません。よい米をつくっていただきたいということです。ただし、天日干しだけをお願いしています。みんな食味ですかとおっしゃる。僕は食味はわからない。機械乾燥と自然乾燥の食味はよほど気をつけた人はわかるかもしれませんが、そうではない。田園風景の中から労働する姿を失いたくない。人が汗をかき、食べ物ができるのだということを私たちは失っていない。その労働によって食が支えられているということを観光地の人にも、来た人が感じなくても見えるようでありたい。
 それと米と御飯は違うのだと。炊き方を一生懸命研究しました。名もない米でありました。水分マイナス15%、通常うるち米の15%、農家のかあちゃんたちはおらたちの米はうめえと自信持ったのです。人から言われたよりも自分らでうまいと思ったほうが絶対の自信になります。こうやって何遍も何遍も炊いている。ちなみに、炊飯器はコシヒカリを基準にしてコンピュータープログラミングされていますから、そういうものが本当は欲しいわけです。ただたくさんの人に集まっていただきました。あと皆さん中山間地を中心に米のこと、これからのことを心配していらっしゃる。
 さめてもおいしい低アミロース米181号、今は「ゆきむすび」というの県の推奨品種になりました。これがお母さんたちがにぎってくれたおむすびであります。500円の入場料を取りました。取ってよかったなと、みんな遠慮なくばくばく食ってくれて、すぐなくなりました。
 うれしいことに、土地は人柄というものが僕は東北だと信じたいのです。僕らがお米のことやったら、「漆の職人関係ないなと思ったら、おめえらの頑張りに何もできないけれども、田んぼの中にあるあの杉の木、間伐材の板に漆塗ってみたのだが、それにのっけたらどうかなと思って」というふうに職人がつくって持ってきてくれて、桶屋が協力してくれた、いろんな人が協力してくれるようになりました。そういうのが、何かをやると案外おれも何かできないだろうかと考える人々がいるのを私は我が東北だと思いたいわけです。
 これ器も出ています。桶だとか、いろんなのが入っています。くず米、米粉と言いますが、私どもはくず米を米粉にしています。新米を米粉にするなんていうのは農家のやるべきことではないです。岩手の郷土料理というのはいろいろありますが、あれは一番米は来年の種もみにまずとっておきます。2番米は売り米にします。しかし、3番米、くず米、青米は自家飯米でありますが、それをおいしくするために石うすでひき、工夫をしてできたのが郷土料理というものでありますから、新米でこのようにしたやつで郷土料理というのは抵抗が私はあります。農家の食べ物ではない。だから、くず米をお菓子屋とかパン屋とか親方のところに行って、「おめえの腕ならこのくず米の粉でもきっととびっきりのお菓子になると思うのだ、親方、協力してくれないか」と言ったら、やぶさかでないと、夜も寝ないでつくってくれて40種類こういうものができました。このごろはくず米の米粉ないかと言われるようになります。物は考えようであります。
 おばあちゃんたちの漬物、パンが生まれます。だんごが生まれます。実は岩手県内は加工の中で、例えば、かまぼこだと13%の小麦を使っています。岩手はナンブコムギなどすごいものがいっぱいありますけれども、いろんな意味で加工の中に入って外国の物に代わってやれるものというのは相当あるなと思いました。
 実にたくさんお越しいただきました。これがシンボルマークです。殷か周の時代の中国の「豊」という字であります。これは、今はここは「曲」になっております。「豆」というのはもともと「たかつき」というお菓子を乗っけたり、お仏様に上げたり、神様に上げる「たかつき」のことであります。この上に乗っかっているものは、これ稲束ではなくヒエかアワだろうと言われています、殷の時代か周の時代は。穀物がたくさん実りました、神様、ありがとうございますとささげていた。来年もこのようにたくさんの穀物が私どもに恵まれますように、どうかよろしくお願いしたいという思いが実は「豊」なのです。食べ物が身近かにたくさんとれますようにというのが古代の人の豊かさという字に託した思いであります。
 ひるがえって、私たちの時代はここに現金と株券ということになるわけでありますが、現金と株券のない東北は、限界集落はどうしたらいいか。金があってもおいしいものが買えなくなる時代が来ないとも限らない。私たちは、金は少ないが、みんなでおいしく一緒に食べる食べ物、お米はあるよという、そういう豊かさを取り戻したいなという思いであります。
 少し物わかりのよさそうな大学の先生だって、1万8,000円農家に保証したい気持ちはわかるが、2万4,000円は取り過ぎではないかと来るわけです。学者もあてになりません。その学者たちの仲間に向けてというのが本音でありますが、1俵60キロを日本人が食べますが、その1俵からどのぐらいの御飯をとれるかというと約1,000杯であります。我々は約1,000杯食べています、年間。1日3杯ぐらい。2万4,000円を1,000杯で割ると1杯幾らかというと、これ24円であります。比べて高いというものはできるが、この米、御飯1杯24円は高いだろうかと気持ちとして言いたかったわけです。
 この中の24円のうちの13円が農家、これが10円になり、やがて8円になっていったときに、私たちの御飯はどうなるのかということです。それを18円にしたい、そしてそれを24円で食べていただけたら、もう少し魅力ある道になりそうだということで、それでもわからない人に、恨みはないのですが、仙台の笹かまぼこ6分の1切れ、同じ値段であります。イチゴ1個24円であります。売り子に恨みはありませんが、お菓子5本、ウーロン茶1杯であります。そういう意味で、農家の積み上げ、農村の努力を単に安い、高いという見方で軽んじられるのが嫌なのです。
 2年目、いろんな大きいホテルの女将さんたちが手伝い始めました。そうすると、村の人たちとの交流が生まれて、たくさんの人が来ます。こびるです。2年目はどこかの親子連れ、いろんな人たちがやってきました。テレビも追いかけて、9月19日にNHKが仙台放送局開局80周年記念の番組、お米の涙というのを1時間15分、75分ドラマでおとといクランクアップしました。これから編集でやるようであります。東北の人たちが米にかけた思いというものをドラマにしたそうです。こういう場が交流の場として、こういうのがまたお客さんになってくれて手伝いに来てくれているわけです。
 最後に、私の勝手な趣味で、最後はこの分だけ、新聞を開いた大きさだけ刈り残してもらうことにしています。何かというと、ここに御飯3膳分、1日人間が食べる、日本人が食べる米の面積です。それで、これをやると子供も大人も農家の人も何だか稲と、米がありがたく思えてくると。結構拝むのです。1日だけこれ残して後から刈り取りますが、やっぱり米を拝みたいという気持ちも大事かなと私は思っています。
 これは一生懸命頑張ってくれた農家の方だったり、いろんなものに対してありがたくいただきますと、そんなのでこんなのをやっております。そういう気持ちが私も応援しようというのに通じているのかもしれませんし、高いのを買うという、今で言えば非合理的なものを超えていく力になっていくのかなと思ったりしたものですから、限界集落もまたあきらめずにやっていけば私は超えていく大切な存在として認識してもらえるようになるような気持ちがしますので、余計ながらこんなことをお話しさせていただきました。ありがとうございました。
○高橋博之委員長 改めまして、結城先生本日はありがとうございました。
○結城登美雄参考人 つたない話でありました。ありがとうございました。
○高橋博之委員長 次に、9月に予定されております次回の当委員会の調査事項についてですが、さきの当委員会において、当職に御一任いただいたところであり、現在花巻市東和地区において進められております「新・長屋暮らしのすすめ」のプロジェクトについての調査を行うこととし、調整ですので、内容が固まり次第、後日連絡いたします。
 次に、来年2月に予定しております委員会調査についてお諮りをいたします。お手元に委員会調査計画(案)を配付いたしておりますが、この日程により調査を行うこととしたいと思いますが、これに御異議ございませんか。
 (「異議なし」と呼ぶ者あり)
○高橋博之委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたしました。なお、詳細につきましては当職に御一任願います。
 以上をもって本日の日程は全部終了いたしました。本日はこれをもって散会いたします。


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