防災対策特別委員会会議記録
防災対策特別委員会委員長  柳村岩見
1 日時
  平成18年4月19日(水曜日)
  午前10時5分開会、午後0時10分散会
2 場所
  第2委員会室
3 出席委員
  柳村岩見委員長、野田武則副委員長、高橋賢輔委員、阿部敏雄委員、佐々木順一委員、
 木戸口英司委員、五日市王委員、佐々木俊夫委員、藤原泰次郎委員、平沼健委員、
 高橋比奈子委員、田村誠委員
4 欠席委員
  なし
5 事務局職員
  佐々木担当書記、泉担当書記
6 説明のために出席した者
  日本大学大学院 総合科学研究科 教授 首藤 伸夫氏
7 一般傍聴者
  なし
8 会議に付した事件
 (1) 岩手県の津波対策の現状とその課題
 (2) その他
  ア 次回及び次々回の委員会運営について
  イ 委員会調査について
9 議事の内容
○柳村岩見委員長 おはようございます。ただいまから防災対策特別委員会を開会いたします。
 この際、3月1日の本会議において、当委員会の委員に選任されました五日市王委員を御紹介申し上げます。
 五日市委員、一言ごあいさつをお願いします。
○五日市王委員 特別委員会初参加でございます。五日市王でございます。よろしくお願いします。
○柳村岩見委員長 あわせて、担当書記に異動がありましたので、新任の書記を紹介いたします。
 泉担当書記。
 これより本日の会議を開きます。本日はお手元に配付いたしております日程により会議を行います。
 これより岩手県の津波対策の現状とその課題について調査を行います。調査の進め方でございますが、参考人の方に御講義をいただき、その後意見交換を行いたいと思います。
 それでは、本日参考人として御出席をいただいております講師を御紹介申し上げます。日本大学大学院総合科学研究科の首藤伸夫教授でございます。
 首藤先生の御経歴につきましては、お手元にお配りいたしておりますので、割愛をさせていただきます。
 それでは、首藤先生、よろしくお願いいたします。
○首藤伸夫参考人 皆さん、おはようございます。首藤でございます。失礼ですが、座ってお話をさせていただきます。
 岩手県の津波対策、今御覧いただいておりますのは明治29年の津波の後に出ました風俗画報というのに載りました版画でございます。これは旧暦の5月5日でございますけれども、ここを御覧いただくとわかるように飾り物のかぶとが並んでおります。それから、このおじいさんはまだちょんまげをしております。そういう時代、1896年6月15日、旧暦の端午の節句の夜8時ごろ襲ってきた津波で、これで2万2,000の方が一瞬にして亡くなられたという津波でございます。
 恐らく津波と申しますと、一昨年の年末にスマトラで大津波が起きて、この種のテレビの映像があちこちに流れました。それで、津波というものは大変なものだなとお思いになったと思いますけれども、私どものように津波を研究している者の目から見ますと、これはせいぜい津波の赤ん坊でございます。こういうビデオに載っているものは。なぜかといいますと、この水の厚さがせいぜい3メートルでございます。これは、さっきお見せしました明治の津波に比べるとエネルギーは100分の1ぐらいでしかないわけです。
 では、何が巨大津波かといいますとこういうものでございます。これは1946年のアリューシャンで4月1日の朝起きたのですが、ここからここまでが30メートルございます。ですから、高さにしますと先ほどのバンダアチェの津波は高さが3メートル、これは30メートル、つまり高さは10倍ある。ということは、エネルギーはその二乗でありますから、100倍になります。
 これは1600年以降、日本に襲ってまいりました津波のエネルギーを県ごとに並べてございますが、岩手を御覧いただきますと、この同じ尺度ではおさまり切れずにここに切り目を入れて縮めてあるということでございまして、岩手県はこの400年に限りますと日本で一番津波の被害に遭った。ということは、世界で一番津波が押し寄せてきて、一番津波があったということになります。
 では、1600年以降ですからどんなのがあったかといいますと、慶長16年、このところが浄土ケ浜でございます。これが宮古の鍬ケ崎、ここに蛸の浜というところがございます。それをこちら側から眺めたところがこういう風景でございますが、昭和の津波はここまでまいりました。明治の津波はここまで。ところが、慶長の津波はこの峠を乗り越えまして鍬ケ崎を襲ったわけでございます。ですから、慶長の津波というのは、場所によっては先ほどこの100年ぐらいでは一番大きかったと申し上げた明治の津波よりさらに大きかった可能性がある。そういうものに岩手県は見舞われた経験を持っているのです。
 その慶長の津波がどこまで来たかというのを宮古のまちの中にいまだに一本柳というところまで来たという記念碑がございます。この辺が閉伊川でございますが、山口川を通って押し上がってきて、宮古のまちをさんざんに壊滅させたわけです。そのときに当時の南部藩主がこちらに出向きまして、そして町割をつくったという町割がこれでございます。これが現在の宮古市の骨格となっております。
 それから100年後、今度は1700年1月27日の夜です。先ほど申しました鍬ケ崎ですけれども、ここで地震もないのに津波がまいりました。そして、家が倒れて火事が出ました。津波で火事が起きたという記録では世界最古のものでございます。では、地震もなくて津波が来た。なぜかといいますと、実はアメリカのカスカディアというところで地震がありまして、遠地津波が来たのです。そのときの記録では鍬ケ崎から南の方は紀伊和歌山の田辺までこの津波が来たという記録がございます。
 それで、1896年の明治の津波というのは大変に大きなものでございました。その高さは、今大船渡市の綾里白浜で38メートル、こう言われております。そのとき遠野の人、山名宗真さんが実に克明にいろんなところの調査をされた。綾里湊から上がってきた津波とこちらから来た津波がちょうど出会ったという話がございます。昭和の津波は、それより約10メートル低い29メートルという高さになっております。
 これが明治の津波後の南の方の綾里湊の状況でございます。その水合の峠にここまで津波が来たという碑が現在建ってございます。ですから、この碑のすぐ近くに三陸鉄道が通ってございますが、その鉄道は明治の津波が来てもつからない高さということでつくられてございますので、そこへ行って綾里白浜の湾の方をごらんになればどんなに高いところまで津波が来たかということを実感されると思います。
 この津波の一番の特徴は地震が大変弱いということでございます。この左の方で見ていただくと、沿岸では震度1か震度2です。震度2というのはどのぐらいかというと、今ここに皆さんいらっしゃいます。そして、皆さんのうち半分ぐらいは、うん、地震があったと、こう思います。ところが、あとの半分ぐらいは、うん、何か揺れたけれども、地震だろうかと。そして、今ここは天井が蛍光灯でございますけれども、昔ならここから電気がぶら下がっている。その電気が揺れている。やっぱり地震だったなと思うぐらいが震度2です。ですから、ちょうどこれ旧暦5月5日で7時半ごろそういう地震がありました。その日は昼ごろから何度も地震があったのです。この弱い震度2の地震だったものですから、しかも端午の節句のお祭りでみんなお祝いをしておりましたから、だれ一人として避難行動をとった方がおりませんでした。ですから、大きな音響がして、何だこれはと騒いだ途端に津波が来て、それで2万2,000の方が、そのうちの1万8,000ぐらいが岩手県の方でございますけれども、命を落とされたのです。これを津波地震と言います。
 これは、横軸は地震のエネルギー、縦軸は津波のエネルギー、ですから震度が大きいような、マグニチュードが大きければ津波が大きいという法則に従うのですが、これだけが、要するに地震のエネルギーは小さかったのに津波だけが非常に大きかった。
 この明治の津波と恐らく同じだったのではないかというのが一番最初の1611年に来た慶長の津波、これもどうも津波地震だった気配が濃厚だというわけです。ですから、岩手県の場合、普通地震が強ければ津波が強い、だから逃げろというのはまず避難の第1ルールなのですが、そのルールに除外される津波が少なくともこの400年間ぐらいの間に2回は起きているというところが津波対策の非常に難しいところでございます。ですから、これをごらんいただくと、こちら側が流された家、こちら側が亡くなられた家、明治のときはほとんど避難されませんでした。家が流されて、人が死にましたから。ところが、昭和のときはかなり地震が強うございましたから、死んだ人と流された家の間には全く関係がない、ばらばらであるということになっています。
 昭和の津波は、今度はおひな様の日にまいりました。明治の津波は端午の節句、昭和はおひな様、それから先ほどお見せいたしました30メートルのアリューシャンの津波は4月1日、それから実はスマトラの津波は1日違えばクリスマスだったのです。ですから、どうも祭日の近くは何か起こるのかもしれないという人はよくございまして、実は1700年代にリスボンでキリスト教の万聖節という11月1日の日に大地震と大津波が起きたというようなことがございました。
 これは、綾里湊の昭和のときの写真でございます。これが海で、29メートルぐらいですから、明治の津波よりは奥まではいっておりません。そのお隣の綾里白浜でございます。先ほどお見せした石碑はこの辺に立っております。ここで目を引くことは、この辺にたくさんありました材木、直径30センチぐらいの材木が全部津波の勢いでなぎ倒されました。ですから、よく防潮林をつくろうということがございますが、防潮林もそこそこの津波には効くのですが、こういう大型の津波のときには効かなくなってしまうというのが泣きどころでございます。
 その後で、みんな高いところに上がりましょう、ここを切り開きまして住宅地にし、綾里湊は集団移転いたしました。その集団移転したのは、1960年ごろこの辺にある住宅地でございます。この下はそのころは作業所が多かったのですけれども、現在ではまたここへ人がたくさんおりてきております。
 さて、1960年には地球の反対側からやってまいりましたチリ津波でございます。そのチリ津波を再現したシミュレーションがこれでございまして、一たん太平洋に広がりますけれども、ちょうど地球の反対側にございます日本にまた集まってまいりました。そして、カムチャッカから沖縄まで大体6メートルから5メートルの高さの津波になりました。これぐらいの大きな津波になりますと、ちょっと考えられないことが起こるのですが、日本に来てぶつかって、また向こうに戻っていきます。そして、チリのあるところは発生したところからすぐやってきた津波よりも日本へ行って戻ってきた津波の方が大きかった。つまり、1日半後ぐらいに実は大きな津波があらわれたというような場所がございます。といいますのは、チリ津波ぐらいになりますと長さが大体700キロとか1,000キロございます。地球の半分の長さが大体2万キロですから、その20分の1ぐらいの長さがあるわけです。ですから、こういう大きな津波にとってみますと太平洋岸の津波は大した水たまりではないわけです。
 深いところの津波は、実は余り気がつきません。短く書いてございますが、ここからここまでが短くても七、八十キロ、チリ津波みたいになると700キロある。700キロあって、高さがどんなに高くても10メートルに足りないぐらい。ところが、それが岸にやってきますと大体こういう3つのタイプになります。1つは、この長さが短くなって潮汐が早く行ったり来たりするというタイプ、一番あります、たくさん見られますのはこういう砕波段波という形で、こことここの高さに差がついて段になって、そして前が次から次にどんどん続けて崩れていく。これが砕波段波という。ところが、ある条件がそろいますと、ここに段がつくのですが、前が崩れるのではなくて、ここに風波程度の、この長さが100メートル程度のこんな波ができ上がります。これが波が前にできますので、波状段波といいます。これのいやらしいのは、川の中でよくでき上がるということと、もし砕波段波のタイプになるならば高さがこれで済むのに、自分でその倍ぐらいに成長してしまう、こういういやらしさがございます。
 アリューシャンの津波、これは砕波段波でございまして、30メートルのこの後ろ側はずっと30メートルです。つまり、皆さん方が浜に出て御覧になる風波ですと、これがばんと砕けると大体6割ぐらいに高さがすぐ減ります。ところが、津波は砕けても30メートルそのままなのです。それは小規模でございますが、これは1.5メートルぐらいのものですけれども、ここで段がついて後ろがずっと高くなる、こういうものでございます。
 それから、波状段波は自分でどんどん発達しつつあるわけです。今ここでは一つ、二つぐらいあるのですが、こちらに来ますと一つ、二つ、三つ目、そしてそろそろこの辺に四つ目が見えるかなというような感じになってございます。
 これは2003年の十勝沖地震のときに川の中に入ってきました津波が、こちら側は砕波段波、こちら側は波状段波になる。ちょっとした条件の違いでこちらになったり、こちらになったりしているというところでございます。
 これはその波状段波というものの実験でございます。本当の図面はうんと長いのですけれども、そこにこういうような比較的短い段波がのっかっている。それがのっかりますとこういうような構造物にぶつかったときにかなり高くまで、単なる水しぶきならいいのですけれども、かなりの水の厚さを持ったものがはね上がります。そして、この高さは現在のどんな数値シミュレーションでも再現できません。ですから、よくてこれがぶつかった高さぐらいまでは再現できますが、その上は再現できないのです。この辺の高さぐらいまでは再現できます。
 ですから、数値計算の結果を見るときに、あれはそこそこの結果です。では、現実にそんなものがあるかというわけですけれども、これはこの前マレーシアで私が探してとってきたわけですが、よく津波の調査でここまで津波が来ましたという印がついて、研究者の方がここまで来たのですよと言っておられるのですけれども、この外を見ていただくとかなり上の方まで今言ったようなものがはね上がっている。その家の中はどうなっているかというと、こちらのところはよく見られるような津波の高さです。ですけれども、ここにこういう痕跡が残されていますね。ですから、波状段波というようなものが激しい勢いでぶつかったときの証拠の一つだと私は考えております。
 ちょっと面倒なお話ですけれども、津波のこういうようなことを理解するにはたった一つの条件、この式だけを知っておればいいわけです。難しいことは申しませんけれども、要するに一言にして言いますと深ければ速く進む、浅ければ遅く進む、ただそれだけです。その深ければ速い、浅ければ遅いというのを計算する式はこれでございますが、それはいいことにいたしましょう。するとどんなことになるかといいますと、これは単なるポンチ絵でございます。津波ですから、ここからここまでが50キロとか100キロあるわけです。すると、ここは深いところにありますから速く進みます。ここは浅いですからちょっとしか進みません。そうすると、後ろが追いついていきます。そうすると、同じエネルギーであるためには背が高くならざるを得ないということで、浅くなれば深いところで四、五メートルだったものが30メートル、40メートルになる。しかも、水に勢いがつきますから、その勢いでのし上がっていくということになるのです。
 それから、リアス式の海岸は大変津波に対して不利益だというのは、実は広くて深い入り口から押し込まれたエネルギーが狭くて浅いところにいきますから、どんどん大きくなる。これはポンチ絵なので実は津波はこんなに短くありません。津波の長さはこの湾の何十倍とあるわけです。ですから、先ほど白浜の水合の峠のところで38メートルにもなった津波が湊から来たのと綾里白浜から来たのと出会ったといいますが、恐らくこの綾里湾の形なんていうのを見ますとそういう津波があったと。そういう津波を再現するには、実は数値計算をするにかなり工夫が要ります。
 それから、もう一つおもしろいことがございます。それは、今ここに振り子がございます。これ何も力を加えないとじっとしているわけです。これに力を加えて平行の位置から持ってきて放しますとチクタク、チクタクと揺れるわけです。では、長ければどうなるかというとチックタック、チックタックと明らかに違いますね。
 それで、どんな湾でもそれを何かの力が加わって、その力を取り除きますと湾の水が自分で揺れます。だから、三陸の方は御存じと思いますが、例えば低気圧が西からすっと通り過ぎてしまうと、低気圧が通り過ぎた後で湾の水が高さ20センチぐらいですか、自分で揺れてしまうという副振動とか静振とか、それから地元の人はそれも津波と呼んでおりますが、それで問題はきょうそれを帰りにできたらお孫さんと実演されればいいと思いますが、要するに昔ブランコを揺する名人、初めはこう持ってきて揺すって、ここで踏み込む、こうすれば、どんどん揺れるという体験、それと同じようにやってくる津波のこの揺れの周期はその湾の揺れの周期と一致すると、どんどんこうやって揺するわけです。
 ですから、大船渡、宮古湾が一番典型的ですけれども、宮古湾の湾奥はチリ津波でかなりやられているわけです。しかし、明治の津波とか昭和の津波はどちらかというと入り口の近くを痛めつけたわけです。そういう違いが出てくるのです。
 さて、先ほどから何度か出ております鍬ケ崎でございますが、これは昭和の津波のときに東京大学の人たちが調査をした記録でここが3メートル、ここが4メートル、ここが4メートル、ここまで浸水しましたよという調査記録を出しております。こういう記録を見ると、鍬ケ崎はせいぜい三、四メートルなのだなと、こうお思いになる。ところが、実は当時この鍬ケ崎に限りましてはここに工事事務所がありましたものですから、そこで詳しく調べたものがあるのです。この辺で4メートル、この辺で3メートルであって、その中を調べますと、何とここでは4メートル、それから150メートルも離れると7.2メートル。わずか100メートルから120メートル離れただけで3メートルも違うわけです。わずか3メートルといいましても、これはもう人の命に完全にかかわる。では、何でこんなことができたかということです。
 それをお見せするのがこのシミュレーションでございます。実は、これは1988年ごろにつくりました世界最初の動画でございます。熱海に関東大震災の津波が来て、しかも防潮堤、防波堤がなかったらどうなるかというシミュレーションを非常に細かくやりまして、そしてそれでつくった動画でございます。もう一度やりますから、そのもう一度のところで今申し上げましたわずかに離れて4メートル、3メートルの差が出るのは何かという原因を確認していただきます。
 ちょっととめどころを失ったのですが、実は津波というのは水位がどんどん上がってくるから津波、こうお思いになったら間違いです。そうではなくて、水そのものが物すごい勢いで走っていく。そのおかげで水位も上がるのだと、そういうように順序を逆にしてください。そうすると、こちらから走ってきた水はここにぶつかるといきどころがありません。しかし、ここは通りですからすっと通り過ぎます。そうすると、ここでこんな山ができまして、できた山が実はこちら側だけを走っていくわけです。そうすると、ここででき上がった山が走ってきたところと、それが来ないところでは二、三メートルの差がすぐできても構わないわけです。ですから、気象庁あたりで津波予報が出ます。例えば6メートルという、岩手県全体で6メートルという値が出たとしても自分のいる場所ではその倍ぐらいにはなる可能性が、自分のいる目の前の岩か何かに物すごい勢いでぶつかって、それが乗り上げてくるというようなことがあり得ますから、普通申し上げておりますのは気象庁の予報で、岩手県で3メートルという予報が出た。そうすると、下手をすると3メートルの津波、では目の前に6メートルの防潮堤があるから、あの上に行ってちょっと見てやろうというようなことをすると、たまたまその場所では6メートル以上になるという可能性があるものですから、普通は倍には簡単になってしまうよと、そういうように考えておいた方がいいと、こう申し上げておきます。
 それから、津波のときに鍬ケ崎で火事が起きたと申しましたけれども、昭和の三陸津波のときには、実は岩手県で3つの火事が起きております。釜石の火事が一番ひどうございました。あとは大船渡の細浦、それから田老でございます。ここで津波火事が発生してございます。
 この斜線で引いたところは津波で家が大破、または流されたところです。この点々のところは浸水しただけです。ところが、第3波が来ているときだったと思いますが、この辺から出火をいたしまして、そして196軒と言っておりますけれども、家が焼けたのです。水が来ておりますので消火には行けなかった。こういう火事が石油と関連を持ちますと悲惨なことになります。今までに世界で5件ございます。アラスカで3件、カリフォルニアで1件、それから日本で1件、しかもそれが不思議なことに1964年にすべて起きておるのですけれども、そのうちの一番穏やかな例がこの新潟の例でございます。1964年、昭和39年の新潟地震で起きたもの。
 地震直後にこのタンクで火災が発生いたしました。しかし、その影響は実はこれだけにおさまった。この地域に津波で入ってきた水がたまりました。そして、ここのところの一つのパイプのタンクの下の方にありますパイプがちょっと折れました。そこから油が流れ出して、その油がこのたまった水の上をずっと広がっていったのです。そして、地震から5時間後、原因はいまだにわかりません。その油に火がつきました。そして、燃え広がった結果、これだけの範囲のところが焼けてしまったのです。これが津波と関係のない第1の火災でございます。これが津波でたまった水の上に油がこのように広がった状況でございます。これはまだ第1の火が燃えている。
 次は第2の火が5時間後に発火した。そして、先ほどの水面を広がりました油を伝わってこの火がどんどん燃え広がりまして、この辺にありました約100個のタンクが全部火を発したわけです。これがその結果でございます。だけれども、これは申し上げますけれども、世界の津波と火事と油が関係した被害としては一番軽いものです。
 ひどいアラスカの例なんかになりますと、まず地震でタンクが壊れて火がついて、その火、燃えている油を津波が、どんどんまちに運んで、そして火をつけたということになっています。ですから、例えばこれは久慈の例でございますが、沿岸地帯にあるこういう石油タンク、これをどのように守るかというのは現在非常に大きな問題になってございます。
 さて、それでいろんなことをやるのに数値計算を使います。伺いますと、今村さんがここでもお話をされたようでございますが、あるいはないと困りますけれども、あれを万能だと信ずると大変なミステイクになるということでございます。
 これは、岩手県にはINS津波防災研究会というのがございますが、そこでつくりましたシミュレーションで、鍬ケ崎のシミュレーションです。これ非常に細かいシミュレーションでございまして、実は鍬ケ崎にはまだ津波対策の堤防等はございません。それで、こういうところの方々に津波のときにどのように逃げたらいいかということを考えていただこうというので、明治の津波を再現いたしました。これはかなり細かくつくってございますから、例えばこういう建物、これは壁がございます。津波は入れません。しかし、この辺には魚市場がございます。魚市場は壁がございますから津波がすっと通り抜けることができる。そういうことまできちんと考慮に入れてつくったシミュレーションでございます。
 これを見ていただくとわかるように、この魚市場はですね、すっと津波が通り抜ける。そして、津波はこういうように逃げていく、道路を伝わっていくわけです。こういうものを御覧いただいて、住民の方にいろいろ避難の対策を考えていただこうという資料には使えます。では、それがどのぐらい信用ならないことがあるかということの例を申し上げますと、13年前の奥尻の津波のときです。奥尻の津波のときに津波の計算の出発点として、実はアメリカの連中はこういうものを提出した。ところが、日本の菊池さんという人はこことここが盛り上がって、ここが沈下した、こういうのは津波の最初の形だと、こうやったのです。ところが、この2つを使っても遠くの津波は合うのですけれども、残念ながら近くの津波が合いません。
 そこで、津波が合うようにこういうようなものをもとにして実は私たちがつくったのがこのモデル。何で一つの津波なのにまるっきり似ても似つかぬようなものが出るかといいますと、津波の最初の形の決め方、これが実はいろいろ問題を含んでございます。世界でたった一つ、最初の津波の形がどんなものであったかというのをはかることができるという例がございます。この断面をとりますと約450キロに及んでこういう緩やかな変形がしております。これは、今の科学技術の力でこの形で推定することができる。ところが、ここに幅が30キロぐらいのぴょんと立ったやつ、これは今推定することができません。ところが、津波について言いますと、これは今の科学技術でやることのできるものを倍ぐらいにしてしまう、そういう効果を持っている。こいつがわからないものですから、やっぱり気象庁あたりはこちらのものをもとにしているということを覚えておかれるといい。
 それから、津波の計算をやるということでもう一つ聞いていきますのは、計算ですから100メートル置きに答えを出していく計算あるいは10メートル置きに答えを出していく計算、そういういろんな計算がございます。そして、例えばこういう津波を計算するのに、これは10キロごとに答えを出していく計算。だとすると、本当はこういう答えを出してあげるのにこんなにのぺっとした格好になる。それで、それを2キロ置きに答えを出す計算というようにだんだん距離を縮めていくと何とか似てくるのです。では、本当に細かくやればいいのかというわけですが、これは下田というところの安政の津波を計算しようと、これが下田の港の安政の津波のとき、ここまで水がはい上がったという実績でございます。そのときに了仙寺には船がぶつかってつくった傷跡なんていうのが残っているのです。下田の港のこの陰にございます。
 そして、計算するときにあるサイズで計算しますと、津波はこのように進んでいく。それを細かにやった方がいいはずだというので細かにやりますと、うんと曲がりがきつくなって、本当に下田の港に入っていくように見えるわけです。そこで、まず800メートルごとに答えを出す計算をやりました。そうすると、ここまで浸水しましたという答えが出る。そして、これが実績ですからちょっと及ばないわけです。では、400メートルにしたらかなりよくなった。これはうまいぞというわけで、今度は100メートルにしましたらばまた合わない。こういうことが起こります。ですから、細かな計算をすれば本来はいいはずなのですけれども、細かな計算をしたから本当に実績に合うかというと、実は津波の半円の問題から、海の中の深さの測量の精度とかいろんなものが絡んできますので、要するに細かな計算をしたから必ずいい結果が出るという保証はないという、それが今のつらさでございます。
 さて、そういうものをもとにしながら津波対策を行うわけでございますけれども、今のところかたい構造物と、それからいざとなったら避難というような、そういうソフトの対策、それから津波のようなものは発生するまでに時間が非常に長くたちます。その間に町が変化をいたします。その変化をするたびに津波に強い町にしていこうではありませんかと、この3つを組み合わせてやるということになってございます。ですから、ハードな防災施設、ソフトな防災体制、それからまちづくり、この3つをやる。そして、現在は精度よく想定される過去最大の津波を対象にしましょうと。三陸の場合は、場合によっては慶長の津波の方が大きいのですけれども、これは精度よく推定することが非常に難しゅうございますので、明治の津波を対象にしようということと考えてよろしいと思います。そうすると、防潮堤で完全に防ぐことはできません。ですから、防潮堤をつくりましても、それを津波が乗り越えることは、これはあるという前提にいたします。
 指定防災施設は防潮堤、津波防波堤、津波水門というようなものがあります。これは「稲むらの火」で有名な和歌山県の広で浜口梧陵が1854年の津波の後で、自分のお金を出しまして1858年に完成した防潮堤でございます。ところが、つくって効果を発揮したのが1946年、つまり90年後でございました。津波対策の構造物というのはこういうように息が長い。ですから、90年、100年の間に機能が劣化しては困る。これが非常に難しいところです。
 これは田老町の昭和の津波の直後でございます。そして、この白いのは雪ではございませんで、海から持ってこられました砂でございます。平均の厚さが1.5メートル、そういうものでございます。ここにありました家が全部流されてしまった。とにかく物すごい死者数だったのです。実はいろんな対策をとろうとしたのですが、結局はこういう防潮堤をつくりまして、その背後にまちを再建いたしました。これが、実はチリ津波の後で古い堤防にカバーをかけた旧堤でございます。これが昭和の後で復帰した町。だんだん人口圧力でこの辺に家が建ち始めましたので、昭和40年代に新しい堤防をつくりました。これが昭和の津波対策でございます。
 これが大船渡にあります津波防波堤です。津波防波堤は非常に深い湾の入り口につくります。入ってくる津波の水の量を制限して、入ってきたものを広い湾に広げるから津波の高さが小さくなる、こういうやり方です。これは津波水門でございまして、津波が川を伝って入ってくる、堤防をずっと高くしますと経費が高くなりますので、津波の際にここで閉め切ろうと、こういう考えでございます。
 では、そういう防潮堤は効くのかというわけですが、チリ津波対策が終了しました直後に昭和43年の十勝沖地震津波がまいりました。そのときの宮古の奥でございますが、津波がここで押し戻されているのです。そして、このときは防潮堤の天端より1メートル程度津波の高さが低うございましたから、これはもう100%消しました。
 ところが、これは奥尻の津波でございます。ここには、高さ4.5メートルの堤防がございました。そして、堤防はこうやって完全に残りました。家は一軒もなくなりました。なぜかというと、高さは4メートル50の堤防に比べて、津波はこれで11メートル。こうなると、こんなものは全く効きません。
 では、先ほどの田老町の堤防は、本当に明治の津波が来たときにどうなるかというのをチェックしたのがこのシミュレーションでございます。これが古い堤防、高さ10メートル、これが高さ10メートルの新しい、今津波がやってきたのです。そして、簡単に乗り越えます。なぜかといいますと、これはこの堤防は昭和の津波を押しとどめることができる高さ10メートル、しかし明治の津波は15メートルでございますから、5メートルこれを乗り越える。乗り越えると、ここにたまった水は、今度は容易には引いていきません。ですから、ここに大きな海水プールができるということになります。
 それで、こういう堤防をコンクリートのものをつくると大変景観が悪うございます。それで、陸前高田ではこういうように植栽を植えまして、コンクリートの建物を隠すということをしています。これは和歌山県の田辺で、これは町からずっと車に乗ってきていますと、これが津波対策の第2線堤であるということは全く気がつきません。ですけれども、この切れ目に来るとこういうゲートがあります。それで、このところはみんな植栽で飾ってあります。そして、町の方は津波の植栽もございますから、これが津波対策とは全く思えないほどです。
 先ほどの田老の防潮堤ですけれども、こういう古い防潮堤に今はこんなカバーをかけて、しかしここではわかるように天端のところのカバーが割れて草が生えてくることは、もう老朽化が進んできているということです。
 これは大船渡でございますけれども、2003年にはこのところのパラペットというのが、これは普通の波で飛ばされました。これを飛ばされましても津波に対する効果にはほとんど影響ありませんが、いずれにしろいろんなところで老朽化が進んでいるということの証拠でございます。
 もう一つ、これは船越でございますが、つくったときにはこの津波対策の堤防の前に砂浜がございます。ところが、だんだん砂浜がやせていきまして、この防潮堤に、普通の波浪がぶつかって、そして根元を掘って、それでこれが危なくなるということになるのです。これはその対策をしたところです。現実には久慈で起きておりますが、ある日こういうような砂浜の浸食は津波防潮堤の根元に進みまして、対策はしておいたのですけれども、ある日突然その防潮堤がすとんと抜けたという事故が、これは七、八年前にも起きております。
 今度は、先ほど田老の町では下手をすると津波が乗り越えて水がたまると申し上げましたが、実はそういう事故がチリ津波のときの山田町と、それから奥尻の津波のときの大成町で起きております。これ乗り越えて、この後ろ側にあった家をみんな水浸しにして、水がなかなか引いていかない。今そこで、地盤をかさ上げして対策をしているところです。ですから、実はこちら側に水が入れば自動的にそれから押されて水が出ていくというような、そういうゲートをつくる必要があるわけです。田老にはございますが、まだちょっとこれでは処理し切れない、小さいと思います。
 さて、津波に強いまちづくりは、基本は高いところ、とにかく津波から遠ざかってつくるということが基本です。それから、どうしても津波の危険のあるところに住まなければいけないのならば、津波に強い家にして住みましょう。それでございます。そういう例を唐丹本郷と唐丹小白浜とそれから吉浜本郷の3つを比較しながらお見せします。
 唐丹本郷は明治の津波のときにめちゃくちゃにやられました。そして、山澤鶴松さんという方がおれのところの土地を提供するからみんなで高いところに上がれと言ったのですが、数軒ついていったのですが、結局浜へ全部おりていってしまったという経験を持っている。
 そして、これがその浜におりていった唐丹本郷が昭和の津波でまたやられた直後の写真です。
 そして、ここにありましたものを昔の山澤鶴松さんの提供する場所にやっぱり移ろうということで、ここを開発する直前、これは津波直後の避難の後の集落でございます。
 そして、今これを削りまして、移転したばかりです。
 そして、これが移転後の修復です。これはちょこちょこと、これはチリ津波のときでございますが、作業小屋がちょこちょこあった状況です。そこへチリ津波対策でこういう五、六メーターの堤防ができました。
 それから、岩手県はここで11メートルの高さの本堤防までとにかく、この辺だと昭和の津波ぐらい防げるだろうというのでこの堤防をつくりました。そうすると、これが昭和の津波の直後の唐丹本郷です。ところが、2001年にいってみますと、これが直後の集落で、ここのところに新しい人々がおりてきていたのです。
 では、隣の小白浜はどうなったかといいますと、これもめちゃくちゃにやられましたが、小白浜は実は明治の津波で移った方はやられなかったという実績を持ってございます。そして、そういう場所へ行くために低いところからの道路がさっとできておったということで、これを伝わって高いところに早く逃げられた、これは昭和の津波のときの避難路のつくり方の大変いい例だとしてあちこちで使われたものでございます。
 そして、昭和に、ここの黒いところに新しい住宅をつくる土地をつくりました。それから、この辺にあるのが明治のときに上に上がっていた方ですね。そして、実は最近ではこのところにたくさん人が来ている。これが高い住宅地を昭和の後でつくっている状況でございます。そして、これは昭和の直後のやつで低いところがやられた。そして、今どうなっているかというと、その低いところにやっぱりびっしりと家が張りついて、その前面に、実はもうこれ世界でたった一つでございますが、防潮堤の中を車が通れるような物すごい防潮堤ができた。これが小白浜でございます。
 では、吉浜本郷はどうだったかといいますと、実はこれ吉浜本郷の古い集落がここにありまして、道路もこう来てこちらからまた山に入っていくというものでございます。明治のときにやられまして、この上に上がります。昭和直後のでは、ほとんど下におりておりませんので、やられませんでした。
 これが昭和の復旧でございまして、ここにはやはりこんな防潮堤ができましたけれども、吉浜本郷の方は下におりてまいりません。今1軒民宿があるだけでございます。どちらかというとこちらの方は農業が主体でございますので、浜に余りおりなくていいという事情は効いておると思います。
 これは奥尻のときの青苗5区でございますけれども、とにかくめちゃくちゃにやられて、高いところに移れと言ったけれども、移らなかったのです。そして、どうしたかといいますとここのところに人工的に地盤を高くして、そこに住居を移しました。これは非常にお金がかかります。ですから、実は岩手県だと広田湾のところの長部ですが、長部が昭和の津波のときにこういう地盤かさ上げをして集落を再建しておりますが、防潮堤をつくるよりはもっとお金がかかるというやつです。
 では、津波に強い町は何かといいますと、これは1908年のイタリアの長靴のつま先のところのメッシーナ海峡のところにある町は、3メートルぐらいの津波が来ても家が丈夫なので何ともないのです。
 これはチリ津波のときでございますけれども、これは宮城県の志津川で流木が日本家屋を倒して、倒された立木がその次を倒すということをやった。大船渡の奥の盛町ですけれども、開運丸という運のいい船が家をつぶしていた。ですから、こういうものがやってくると嫌なのです。
 これは奥尻の津波が起きる前の青苗地区でございます。一番先端の青苗5区というのはこちらからやってきた津波で一撃で二百何十軒やられました。ここに小高い丘がございますので、その丘に守られた4区、3区、2区というような地区は第1波では大丈夫だったのです。ところが、第2波で実はこちらから津波がこの辺まで上がってまいります。そして、この辺から第1の火が出まして、結局はどんどん、どんどん燃え広がっていった。ここにあります2軒の建物に御注目を願いたい。これが津波が来て、その後来た火災で燃えている状況。これがその2軒の家です。これが津波の後、ここで津波にやられなかった家も全部焼けてしまったのです。この2軒は残った。それは魚市場と漁協の冷蔵施設、つまり鉄筋コンクリートの建物ならば窓とかドアはやられますけれども、この漁協の建物なんていうのは家を1軒、それから船を四、五そうとめて頑張ったのです。ですから、アメリカの津波対策は、まず防潮林で津波をちょっと和らげる。その背後にこういう津波に強い建物をつくって、その後ろなら木造の建物でもいいではありませんかと、こういうことにしています。
 そういういい建物ができれば、これは沼津の例でございますが、津波のときにはとにかく津波から遠くへ逃げるのではなくて、津波より高くへ逃げるということが肝心でございます。ところが、ここはだだっ広いところで津波から逃げようとしても、5分以内に津波がやってくる。ですから、3キロ、4キロ横に逃げたら間に合いません。この赤い色を塗った建物あるいは黄色に塗った建物がございますが、これは津波に強い鉄筋コンクリートの高いビル、赤く塗ってあるのは夜でも昼でも逃げ込める津波避難ビルです。黄色いものは昼なら逃げ込む。赤と黄色の違いで、夜は逃げ込めないというのは、夜非常階段が外にないわけです。こういう建物の持ち主と契約をしまして、ある地区を見ていただきますと、この黒いのはその避難ビルの持ち主が官公庁である、こちら側はプライベートな持ち主、ですからある地区に限って言いますとプライベートな津波避難ビルが非常に多い。これは夜でも逃げ込める、こういうことになっています。
 それがなければ、これは紀勢町という三重県の例でございますが、津波避難塔をわざわざつくりまして、昔の津波の高さはここまで、ここはそう、この辺は集会所とか、そういうものでございまして、上だけが逃げ込める避難所です。このアイデアは、実はスマトラの津波の後でタイでも採用されまして、あそこも土地がございませんので、お寺さんの敷地に2階建ての鉄筋コンクリートの建物をつくり、1階は集会所と、それからお坊さんの勉強するところ、2階を避難所にすると、こういうことをやっています。
 このように鉄筋コンクリートの建物は非常に丈夫です。これもタイのプーケットのパトンビーチというところの建物でございますが、津波の後は全く無被害です。しかし、ここの津波で50人死んだのです。何でそんなことが起きたかというと、実は地下街だと、地下のモール街、地下に入った水は津波が引いても逃げられない。1階、2階なら自分ですっと水は引いていく。ですから、やはり沿岸でつくるこういう丈夫な建物というのは、そういうちょっとした細かな気遣いをしておかないと、建物が全く丈夫だったのにここで50人死んでしまうのです。
 さて、それで要するにその土地がどんな土地であるかということを知って住むということが基本でございます。それから、知っていても大きな津波が来て、その次の大きな津波が来るまでに何十年あって、それで世代が変わります。そうすると、その土地の性質が忘れられてしまう、これが一番つらいわけです。
 これは名古屋の例でございますが、昭和39年に伊勢湾台風で被害を受けてこういうところが浸水したのです。浸水した後で調べましたら、実は江戸以前からどんどん干拓をして入り込んでいたところが全部やられてしまった。つまり、人間が人間の力で開発したつもりだったけれども、自然の猛威にはやっぱり勝てなかったということです。そこでどうしたかといいますと、この浸水するような場所を一種から五種までに分けました。この一番ひどい一種地域には条件をつけて木造の建物はだめとしたのです。こういうところは、ある高さ以上に人間が万一のときに逃げ込める部屋を必ず1部屋つくりなさいと、こういう条件をつくりました。ですから、これは第1種地区で鉄筋コンクリートにして、しかも1階は車庫に使って2階と、ある高さ以上に人間の逃げ込める場所を急遽つくった。そういうことでございます。
 さて、それで最後のソフトの体制でございます。津波の予警報をやってもらって、とにかく逃げる。逃げることを忘れないためには防災訓練をやっておきましょう。そして、津波に対する知識を次世代、その次の世代につなぎましょうと、こういうことが主なものでございます。
 これは大変珍しいものでございますけれども、昭和の津波の後で何と世界で初めて津波予報装置塔というのを釜石でつくりました。当時の土木課長のアイデアで、津波の水位がある程度以上下がったり、ある程度以上上がったら自動的にサイレンが鳴って釜石のまちへ危急、本当に危ないぞということを伝える。これは戦後はもうなかったらしいのですが、今釜石のお年寄りの方宅にはそういうものがあったという記録が残っているようであります。
 そのときにやはりこの三陸地方で津波予報をやろうというので、こういう図表をつくって津波予報をやるようにいたしました。そして、現在は約10万ケースの数値計算をやっておりまして、その結果をデータベースに入れてあります。そして、地震が起きて3分半で震度が決まりますとその結果でそのデータベースをのぞき込んで、大体原則として県ごとに何メーターという予報を出します。しかし、先ほど申し上げましたように我々のいる場所、そこは場合によってはその倍ぐらいになるということを覚悟しておかなければいけないということが一つございます。
 それともう一つ実は注意をしなければいけないことがあります。これは、地震があって津波予報を出す系列と津波予報を出さない系列というのがあります。津波予報を出す系列は津波警報、津波注意報というように行いますが、津波予報を出さない系列で、しかも、若干の海面変動があるかもしれないが、被害の心配なしといった報道がされたときには、本来は津波の影響があり得る場所なのです。こういう場合に海の中には入ってもらいたくないのです。入っても大多数の人には影響ありません。ところが、非常に津波のいやらしいときは、津波は押してくるときは自分の勢いで押してきます。引いていくときは土地の高い、低いに従って引いていく。そうすると、妙なところに低いところがあればそこへ全部集まっていく。そうすると、そこにいたら命が危ないわけです。ですから、津波警報ではないのだけれども、何かわからないのだけれども、これが出たときには警報解除と言われるまでは海の中には入っていけないというのがこれです。
 日本の津波警報が間違う可能性が幾つかあります。1つは、先ほど言いましたように倍ぐらい違う可能性、それからもう一つは明治の津波とか、慶長の津波のように地震が非常に小さい、そのときにどうしても津波を小さく言ってしまう可能性がある。それは早く修正すればいい。修正するには、はかればいい。これは実は皆さん方にお配りする資料を差し上げた後で、またこのパワーポイントを修正しましたからお手元にはございませんが、今のところ深いところではかれるものはこれだけのシステムがございます。そして、釜石沖には東北大と東京大が持っておるものが1つございます。ですから、こういうものを使って予報では3メートルと出したけれども、どうも5メートルらしいぞというようなことがわかればすぐ修正するということをやればいいですね。今国土交通省の方でここへ沖合の津波観測塔を出そうということをやっておりますが、それは津波予報の修正にはちょっと間に合わないかもしれないという弱点を持っています。
 それから、こういう津波危険地図をつくって、こういうところは危ないのだということを常に覚悟していただきたい。岩手県でもこれをやりました。これをやって配った結果がございます。5年前に配布した地図を、そんなもの知りませんという人たちがこれだけ。特に若い人、10歳代、20歳代の人は知りませんというのが多いのは当然なのです。知っているけれども、そんなもの家のどこにあるか知らない。あるが、引き出しに入れてある。1,700人中わずかに100人ほどがちゃんと掲示をしていますよと、こうなるわけです。ですから、いろんなものでやりましても、なかなかそれを実用に使っていただくというのは大変難しいところがある。
 それから、この中で、これから津波の一番難しかろうと思うのは釣り人の命を救うことでございます。磯釣りの人に津波情報を伝えるのは大変難しい。それから、あなた方もお知り合い、御自身も釣りに行かれると思いますが、とにかくやるべきことはこれでございます。救命胴衣を着用すること。今漁業者は法律で救命胴衣をつけなくては作業できないことになっていますから、それと同じような状態のところに行かれる釣り人も救命胴衣を絶対につけるように、こう思います。
 それから、夜中でもちゃんと逃げ道がわかるように太陽電池で逃げ道を照らせるような標識とか、それから津波が来たらどうするかというのを住民みずから、これは釜石の根浜でやっていると思うのですが、住民みずからやりなさいと。住民みずからでやるというののよさはこれでございます。
 これは和歌山県の串本です。地震があって、10分そこそこで津波が来るという場所、この場所の公式の避難路はこのルートでございます。これは15分かかるのです、安全な場所に行くのに。10分で来るのに15分、逃げ出すのに四、五分かかるだろうから、そんなことをやっておったのでは間に合わぬ。そこで、住民が自分たちでつくりました。それはこの道です。この道を上がると6分で逃げられる。
 なぜこうなったかといいますと、実はここにJRが通っています。JRと市町村が公式の話し合いをしますと鉄道を横切ってもらうのは踏切のある場所以外は認められないというわけです。では、住民の命が大事だ、ここに踏切つくってくれと言ったら、今の予算ではそんなものできませんと。ところが、住民がJRに言うと、お客様のことでもあるし、緊急の際にお通りになるのぐらい目をつぶりましょうと、こうなるわけです。そして、こちらにこの道を住民が切り開いてこういう木道をつくって、結局この木道にかかりました金は、それでは町が払いましょうと、これでできた。例えば久慈に行きますとこれと同じようなものができていまして、そして要するに平常時は通ってくださるなと、こう言っているわけです。だから、住民が主体でやると、住民が一番逃げやすい道はこれなのだということで探せばいい方法がわかるわけです。ですから、やはり住民が主体になって自分たちの一番いい道を探し出してやられる。それを行政が後押しをするというのが一番いいのです。
 防災教育ですが、これは防災教育をやる前が白、防災教育を受けた後は黒。昔の津波の被害を受けたところでやったのですけれども、高校生ですから、港からあふれてきて浸水するのではありませんかというぐあいに軽く考えていたのです。ところが、話をするともう途端に変わりまして、下手すると今の町全部津波にやられるのではないかというふうに現実を認識するわけです。これが防災教育のいいところだと思います。
 それで、防災教育でとにかく教えたいことは、とにかく速く逃げる。これを見ていただくと津波の高さは同じなのに1万人のうち0.5人亡くなりますかという状況になるかと思えば1万人のうち7,000人はお亡くなりになりますよというふうに物すごく条件が違う。それは何かというと、とにかく早く逃げるか逃げないか、これだけです。
 ここにはみ出している点がございますが、これが大体明治の津波でございます。だから、とにかく明治の津波の高さは1メートル、2メートルそこそこでも何千人の方が亡くなっていますね。
 これは陸前高田あたりでは一生懸命住民以外の方も含んで避難、これはタイでもやり始めた。まず、条件は強い地震の後には津波が来る。これは最初のルールですが、これは90%しか正しくない、10%の例外がある。それでも津波を見ながらこんなぐあいに逃げれるのです。
 それから、これは釜石でございますが、第3波が来たときにこうやってみんな珍しげに見ている。第4波のときにこれみんな逃げています。いつもうまくいくか、これは日本海中部地震の津波のときにここに9名の方が写っているのです。次の写真、ここに1人の方がいる。そして、最後はだれもいなくなった。この1人の方を含んで9人のうち3人が命を落とされた。ところが、この水の厚さはこの建物に残った痕跡を見まして、私がはかりましたら、わずか70センチです。ひざまでないのです。その津波に追いつかれて、そして亡くなったのです。ですから、津波から遠ざかろうというのは非常に難しい。津波は高く上がる、そういう高く上がれる場所を用意してあげる、これが命を救う手だてです。
 もう一つは、津波が引きから始まるよと。だから、引いたら逃げ出せばいいと言うのですが、これを見てください。漁港の中は静か、外だって渦が一つあるだけ、それでだっといきなり津波が来るのです。だから、津波はいろんな顔があるのです。では、海だけ見ておけばいいかというと、これは第1波がこっちから来て、大浦は何だ、何だと慌てていたら第2波がこっちから来た。だから、条件によっては、これは鍬ケ崎もそうでしたけれども、陸から先に来るわけです。
 これから大災害の後、皆さんで助け合いをするわけですが、これは阪神大震災の後の助け合いの状況です。これは、住民が約1万5,000人助け出しました。そして、そのうち1万2,000人を超える方が生きております。消防レスキュー隊が3,000人助けましたが、半数は命を落としておられます。自衛隊が入り込みましたが、命の助かった方は非常に少なかった。ですから、とにかく事が起きたら皆さんで助け合うというのが非常に重要になってくる。
 これは消防レスキュー隊が助けた3,000人の内訳でございます。最初の日にこれだけ助け出しましたが、かなり生きておられた。2日目にこれだけ助けましたが、生死が逆転しております。そして、3日目過ぎると、助けたけれども、ほとんど亡くなっているわけです。ですから、とにかく最初の24時間に助け出す、これが一番重要です。
 それから、2番目に3日目、ゴールデン72の間に助けるとまだ生きていらっしゃる。ですから、とにかく早く助けに行く、これが重要です。ところが、三陸沿岸で今こういう地点は、恐らく交通途絶するだろうと見込まれております。その交通途絶の一番大きな原因は道路上に大型の漁船がいっぱいほとんど無傷で置いていかれるだろう、その取りのけるのに時間がかかるだろうと。
 ですから、実は後ほどディスカッションの際にもそういうときの対策をどうするかというようなことを申し上げたいと思いますが、とにかく津波のときはすぐ近くの住人が助けるということはできません。これは今までの例からいくと、その被災した場所の住人のほとんどが命からがら助かっています。地震のときは倒れた家の隣の家が大丈夫だったら、そこに地震では驚いたけれども、すぐ立ち直れる高校生のあんちゃんがいるという状況がいっぱいある。そうすると、本当に隣同士の助け合いができますが、津波のときはそういう人たちもみんな腰が抜けて動けなかったというのが今までの例です。そうなると、津波に被災しなかった近くの集落から駆けつけるというのが一番なのですが、道が使えなければそれができない。
 それから、もう一つ御注意願いたいのは津波発生確率、例えば宮城県沖が98%、明治クラスは30%と言われています。そうすると30%の方は後でいいのではないかと、こうお思いになる、そういう確率と、物事が起きるという本当の順序は実は違うということを申し上げておきます。
 これは1987年に、実はアメリカの西海岸で、ここでこれからの30年に起きる確率が30%、それからここで起きる確率は80%、こう言われております。ですから、だれしもこちらの対策を急ぐと、こう言ったのです。ところが、1987年にそういう予報を出して、実際にはこのロマプリータ地震の方が先に起きた。そして、こちらの方は何と2004年まで起きなかった。ですから、要するに確率という問題と物理的に物事が進行して今どこまで進行しているかということは必ずしも一緒ではないということです。ですから、30%の対策もこれは一生懸命考えておかないと上手の手から水が漏れるということになります。
 さて、これは皆さん御存じの中央防災会議ではいろんなところに危険があるよと、こう言って、検討しなければいかんのはこれだけだと、こう言っている。岩手県で言いますと三陸沖の北部、それから宮城県沖、それに明治の三陸津波と、この3つぐらいにしなさいと、こう言ってあるわけです。
 では、どういう場所にあるかというと、これが三陸沖の地震の起きるだろうという場所です。それから、宮城県沖はこう、それから明治三陸はこれでございます。そして、それぞれが起きたときの津波の高さはどうかといいますと、この赤いのが明治三陸でございますから、岩手県の場合は第一義的に明治三陸の津波を一生懸命やるというのが基本であるというように申し上げてよろしいと思います。
 では、そういう状況にあります岩手県民が何を行政に要望しているか、これは総合防災室が数年前にやりました要望でございまして、一番多いのは弱者対策、これは岩手県の場合、頭が痛うございます。何しろ八十何歳のおばあちゃんが海辺に住んでいる。地震が起きたらそれを六十何歳の水防団員が高いところから救いに行く、そしてリヤカーに乗せて高いところから逃げなければいかん、こういうことですね。避難路対策とかいろいろありますが、3番目に防災教育をやってくれと。
 これは岩手県の中ではINS津波防災研究会と、それから今のところ動いておりますのは宮古市の教育委員会、それから宮古市の教員、これが集まりまして現在津波防災の学習教材をつくってございます。そこには田老の昭和の津波の跡とか、明治の津波の跡なんていうのが入りました教材をつくって、今各教室で使ってみて、どこが使いやすいか、どこを変えるべきかというような議論が間もなく始まって、今度の夏休みぐらいには世界に出せるようなものが完成するという意気込みでやっている。
 こういうように人間は忘れやすくて、実は大災害がありまして8年ぐらいは住民の一番の要望は、行政に対してあんな災害が二度と起こらぬようにしてくれというのが一番の願いですから、それがだんだん忘れられまして、10年たつと十年ひと昔でもとの場所に戻り、15年たちますと災害を受けた人たちが、手痛い経験を持っておられても、それがその人自身の対策にも生きてまいりません。
 30年たちますと、仏教でいいますと弔い上げでございます。なぜ弔い上げかと私はお坊さんに聞いたら、要するに33回忌、亡くなられて32年でございますけれども、32年たつと亡くなられた方を実際に存じ上げておられた方もおられなくなる、だからやめていいのだと、こういうことです。では、災害の経験を忘れない方がいいのだけれどもと思うと、実は忘れないと困るというのがありまして、6年の間に災害の経験をうまく処理しないと心に傷が残るわけです。ですから、6年間ぐらいでうまく処理をしないといけない。では、忘れなければいけないけれども、忘れては困る。何かうまくノウハウをつなぐ手はないかというと、日本にいろんなノウハウをつないでいる見事な例、世界に誇れる見事な例が一つあります。それは実はこれでございます。
 伊勢湾神宮式年遷宮、20年に1回やります。これは、要するに木造の建物だからそのぐらいに建てかえた方がいいのだという説が1つと、もう一つはこのぐらいにやらないとノウハウが伝わらないと。ノウハウは何かというと、例えばこういうものです。神様に建物を上げただけでは神様はすめませんからいろんな衣装とかお使いになる神馬とかをみんなまた新調して差し上げる。そうすると、これ一遍神様に差し上げたものですから、これを新調するときに人間が手に触れるわけにはいきません。だから、見よう見まねでつくるわけです。しかし、20年だと前のときの経験をお持ちの方がまだ生きていらっしゃる、弔い上げになっていないですから。そうすると、ここはこうしてつくったのだと、この衣装は何という草の皮を何時間どうやって、そしてそれにどんな染料をつけてというようなことを教えてくださる、それで千何百年も昔のそっくりな装束が今こういう種類のものが600種類あるそうです。600種類、1,200個に上るものが1,300年ぐらい昔そのままの姿で残っている。
 では、災害に対してそういう役割をするものはないだろうか。これは田老町の津波防災訓練の参加者です。時々びっと上がっていますよね。何でときどきこんなに上がるのか。ここからここに上がっていくときには、実は伊豆大島地震なのです。そして、その次は宮城県沖地震があったから。実は、日本海中部が起きたのですが、あれは日本海のことだろうということでなかなか簡単にはいかない。ここは三陸沖に一遍警報がありました。ここは北海道南西沖で警報がありました。
 どんどん下がりまして、実は気になっているのはここです。十勝沖で警報が出たのに、実はちょっとここで1年休んだのですけれども、参加率が上がらない。今までは忘れた方がいい、だけれども本当に忘れては困る。何が忘れないための契機になるかというので、実際に警報が出るようなものがあれば、どんどん住民が上がってくれるだろうと思うのに上がってくれない。これが心配なのです。つまり、世代がどんどん変わって、若い方に記憶が薄れていっていると、こう思うのです。
 ここは和歌山県の広ですけれども、何と津波のお祭りを毎年やるのです。そして、ここで毎年1回おれたちはこの低いところに住んでいるねということを自覚していただくのです。
 これはオランダの例で、これ高潮ですけれども、これは青森県の津波警報、今そういう記録を津波ライブラリーというのにたくさん集めておこうというのを私どもやっておりますから、それを尋ねていただけばいろんなアニメーションも入ってですね、津波対策が一番難しいのは、津波は一つ一つ違うわけです。津波地震のようなのがあったかと思えば、一つの津波でも押しで始まるところ、引きで始まるところ。それから、一つの津波から次の津波まで時間がたちますから、昔起きなかったような災害が大規模に起きるというようなことがあります。ですから、ちょっとそれは大げさではないのと言われるかもしれませんけれども、ややこういうぐあいに町が変わったから、こんな津波の被害が起こり得るということを多少予測して、そして対策をするということをやっておきませんと、この次の津波のときにこんなことも起こるのだったなと言って反省せねばならぬようなことになりかねないと思っております。
 大分長くなりましたが、以上でお話を終わらせていただきます。ありがとうございました。
○柳村岩見委員長 首藤先生、大変ありがとうございました。
 それでは、質疑、意見交換に入ります。ただいまのお話について質疑などがあれば、お願いします。
○高橋比奈子委員 大変勉強になりました。ありがとうございました。
 弱者対策も今国が乗り出しているのですが、県が目指すべき弱者対策の中で、もしこういうのがいいですよという何か御提言があればお知らせいただけませんか。
○首藤伸夫参考人 弱者対策は非常に難しゅうございましてですね、私の知っている例なんかで、先ほどもちょっと申し上げましたけれども、これは実は小白浜なのですが、そこに83歳のおばあさんがおられます。この方のお連れ合いは、昭和の三陸で大変珍しい体験をしておられる方でございますが、その方は3年ぐらい前にお亡くなりになりました。おばあさんお一人ですから、高いところに移っていただけませんかと言ったら、私はおじいさんとの思い出のあるこの家で、津波が来たらもう私は死んでもいいからここにいたいのだと、要するに行きたくないと、こうおっしゃるのです。そういう方を無理やりというわけにはいかないから、そこのところは水防団員が今津波だというと、水門を閉めに行かれる方もおられます。そして水門を閉めて、その帰りに御提言するということになっているのです。
 ところが、やっぱり三陸地方で一番そういう弱者対策をするときの人手の問題で、若い人手がいない時間帯がかなりあるのです。そうなるといろんなことを考えてもらう必要がある。ということで、場所によって、こうやっておりますから、例えば下安家というような場所で今進んでいる避難対策でありますけれども、車を使いなさいと。今までは避難になるべく車を使ってくれるなと。それはなぜかといいますと、例えば田老町で車のメーン通りと、それから人間が逃げてくるところが交差するわけです。田老町は、逃げていく人たちが十字路で立ちどまると速度が落ちますから、昭和9年の復興のときにその速度が落ちないように十字路のところで家を角切りしてあるのです。ですから、走りながらでも行けるようになっている。ですから、田老町に行かれたら、そこのところを御覧になるとそういうところに気をつけると、なるほど津波に強いまちづくりというのはこういうものだなということがわかります。
 下安家は、幸いにして人間が逃げていく道路と車の通るところが並行しています。ですから、これはどちらかというと積極的にお使いなさいと、そうすれば60歳の水防団員でもまだこれで八十何歳をリヤカーと違って乗せていける。それで処理できるところはなるべくそういうふうにしよう。それで処理できないところがやっぱりかなり残ってくると思います。これは、津波対策を根本的に考え直すというところから始めなければなりません。それで、私はこの際、今だと非常に難しいのですけれども、災害直後ならできるけれども、ふだんは難しいのですが、土地利用規制をかけるということです。それで、これは例えば津波に関しては北海道の浜中町というところがかけてございます。ここにはこんな建物しかつくってはいけないとか、それから洪水に関してそういうのをつくっているのは川崎村にございます。あそこはちょうど今道の駅か何かができているところですが、ここは高さが18.5メートルよりも低いところに人が住むような建物をつくってはだめですね。そういう規制をかけています。ですから、やはり浜に近いところにお住みにならないと不便だという方は津波に強い建物をつくって、そこへ逃げ込める、近くなら逃げ込めるというようなことをする、これ以外私はないだろうと思います。
 とにかく今の若者が防災訓練で、おれ逃げられると言っても30年もたてば、今30歳ですから60歳になるわけです。そのときに初めて逃げなければいけないという事態になるかもしれないですね。ですから、その30年の間になるべく高いところにお引っ越しくださるとか、どうしても低いところに住むならいい建物、特に海辺におつくりになる公共の建物などがあればそれは鉄筋のコンクリートに必ずして、耐震性の建物ならば津波に対する力では倒れることはありません。ですから、今津波避難ビルの設計規則みたいなものもほぼでき上がりつつあります。ですから、そういうことで建物が壊れることはありません。
 だけれども、先ほどもお見せいたしましたが、波状段波みたいなものが来ると、計算上はここまでだと思っているのにその上にばんと物すごい水が上がってくる。それに木材かなんかが巻き込まれていれば、それで窓なんかはやられるわけですから、だからそういう建物の海側ではなくて、ある程度の高さの陸側の方に逃げ込むと、そういうことをなさらないとだめだと思うのです。
 ですから、結局弱者対策というのも緊急の場合に弱者をどう運びましょうかということで長い間に津波に強い町、弱者も逃げ込めるような町、こういうことを目指さないと無理だと思います。
○佐々木俊夫委員 最後の方に津波避難訓練の参加者ですね、何かあると翌年はふえる。そのとおりだと私は思っています。特にチリ津波が悪い経験を与えた。私も体験したものですから、実際私もこれぐらい水へ入って、先生おっしゃるように水が引くときのくぼみに入っていく勢いというのは物すごいものですから、そこに引き込まれる。
 最近チリ津波以後、地震や津波だというと逆に見に行くのです。それはチリ津波のときは緩やかなものですから、引いた後に魚がぱたぱたしておったから、それを拾ったぞ、おもしろかったぞという言い伝えになってしまって見に行く、あるいはどの程度の津波が来るのかなと、こういう傾向があるのです。
 それはさておいて、避難訓練に参加してこないのはある程度堤防もできたのだから、そんなに慌てることはないというような悪い効果も与えている。
 それから、もう一つは学校の生徒が、私ども子供のころ津波訓練というと、必ずランドセル背負って逃げるものと、そうすると高いところに先生がいて、だれだれさん来たね、来ないねと。そうなのですけれども、今の訓練というのは大抵日曜日にやるのですけれども、大体学校の先生がいないのです。大抵遠くからで土曜、日曜と帰ってしまうものですから。したがって、子供の参加が非常に悪い、これ学校教育に絡むのではないかなと。こんなことを思いながら、やっぱりどうしたら参加者をふやすか、先生のお話も聞きながら、もし何かあるのならと。
 それから、これは私どもが体験的に春先というのは地震が多いなと思っているのです。これは統計的にどうかわかりませんけれども、先ほどのお話のように3月3日は昭和、5月は明治の津波、そのほかに津波は来なくても何か春先は地震が多いのだけれども、これは実際そうなのでしょうか。どうも体験的にはそんな感じは持っているのですけれども。
 それから、地震が小さいのに津波が大きいという例を先ほどお話しいただきましたが、私どもはそう聞いているのですけれども、それどういうわけでそんなことになるのでしょうか。何かエネルギーだけではできないような何かあるような気がするのですけれども、やっぱり私どもは地震の大きさによって、どの程度の津波と直感するのです。大したことはないから、これは逃げなくていいのだと、そう思うのですけれども、どんどんあれからいきますと逆に地震が小さくても大きな津波があり得るということですが。
○首藤伸夫参考人 まず、一番答えやすい2番目の話からいきますと、春先に地震が多いのはなぜかというとわかりません。
○佐々木俊夫委員 やっぱり多いのですか。
○首藤伸夫参考人 いや、必ずしもそうではないと思います。ですから、それはお知りになりたければ東北大の地震予知噴火予知観測センターあたり、あの辺のホームページというのがありますから、それをのぞくときょう起きた地震、いつ起きた地震というのがずっと見れますから、そういうのを御覧になるとわかると思います。
 それから、最初のお話、チリ津波、実は私が津波の仕事を始めたのはチリ津波の調査に行って両石でめちゃくちゃにやられた家の後片づけをしているおばあさんに「おばあさん、大変でしたね」と言ったら、おばあさんが何と笑いながら「あんたこんなもの津波じゃないよ。昭和や明治の津波に比べたらね。」と、こうおっしゃったのです。それで、最初にお見せしたスマトラのバンダアチェの津波、あんなものだったですよ、チリ津波なんていうのはせいぜい。だから、私は初めてだから、これは大変だなと思ったけれども、明治や昭和の津波というのは、こんなもの津波ではないよと。その一言で、僕はそれ以来もう46年津波をやっているのですからね。
 それで、結局その後にお見せしたアリューシャン津波、ああいう実像にぶつかって、ではこれをどうやって防げるかと。さっきおっしゃったように、チリ津波の直後にチリ津波緊急対策で防潮堤五、六メートルできました。できて2年もたたないぐらいに十勝沖の津波、それで十勝沖の津波がほとんど同じで、100%働いたものだから、その直後に行きましたら、おっしゃったようなことがありまして、もう堤防ができたから、津波なんていいんじゃないのという、要するに若い方の反応をあっちでもこっちでも見てきました。ですから、堤防というものがあると、場合によっては住民にいろんな悪影響を与えます。
 ですから、田老町で津波が乗り越える、先ほどシミュレーションつくりましたけれども、あれも実は住民にお見せするためにつくったのですが、あれをお見せしたら、やっぱりそうか、今の堤防でも明治の津波が来れば乗り越えてしまうのだねと、やっぱり避難路だけは、帰ってみんなで相談してきちんと掃除をしておこうよというような反応がございましたので、やっぱりそうやって昔の実態を言葉だけではなくてわかりやすいものでお見せするというのが、住民の方にいろんなことを知っていただくのに大変いいのではないかなと思っています。
 それから、防災訓練のやり方とかなんとかでございますが、やっぱり小学校の方、中学校の方に体に身につくようにやっていただくということが一番いいのだと思うのです。ですから、そういう意味で大変ですので、防災研究会なんかでは防災のそういう教材をつくろうと、そういうふうに校長先生方にも話したときにも重要だということはわかる。だけれども、何を話していいかわからぬというような反応がございましたので、それでそういうものをつくりましょうと、そしてそれをつくって実際にやってみて、場合によっては、私が言っているのは、単に受け取る側ではなくて、例えば中学校、高等学校の文化祭あたりでは自分のところの津波の記録を掘り出したり、それを自分のところの津波の防災の歴史を調べたり、そういうようなことをして発表するのもいいのではないかと。例えばこの前、私はハワイの津波博物館に行きましたら、あの辺の高校生ともそういうのでちゃんとした印刷物をつくって何々高校の何期生がこれをやったなんていうのが博物館でちゃんと売り物にまでなってあったりするわけです。ですから、いろんなことでその記憶をつないでいくということです。
 日本海中部のときに実際にあった話です。あるおばあさんが、昭和14年ぐらいですか、男鹿の地震で小さな津波が起きたのです。地震がそのときと同じぐらいだったから、この前と同じものが見れるだろうと思って浜に行ったのです。そうしたら、今度は、地震は同じぐらいだけれども、物すごくでかくて巻き込まれて流されて、やっと助かったのです。ですから、さっきも申し上げましたが、津波は全部違うわけです。ですから、そのことをどのように認識していただくかということが大変難しい。
 それから、防潮堤も津波が乗り越えたら壊れるかもしれません。防潮堤は、岩手県は世界で一番たくさんつくっているのですが、それが明治の津波が乗り越えたときに大丈夫、もつかもたないかというようなことをきちっとチェックしようとしても、実は昔つくった防潮堤の設計図とかなんとかはもうないからわからぬという場所があるわけです。だから、そういうところでいろんな抜け落ちたところがないように手を打っておかないと、防潮堤があるから大丈夫だと、そこへ行ったら、津波が何と乗り越えて、上におった人間がやられたと、人間だけではなくて防潮堤も実は乗り越えて、押し流されたというようなことが起こりかねないわけです。それは感じで言うとあと40年ぐらいの間には起こるのではないかと私はその前に死んでいますからもう責任がないと、こういうことになるかもしれませんが、そういうことがあるのです。
○野田武則委員 具体的な事例を見ながら御説明いただきましてありがとうございました。
 ちょっとお聞きしたいことは、先ほど先生お話しされていましたが、道路の閉塞される箇所ということで先ほど示されたわけですが、御承知のとおり三陸沿岸は、道路は45号線1本ですし、それぞれの部落も集まっておりまして、道路が寸断されると本当に救援等が大変なことになると思いますが、先ほど道路が、船舶が邪魔をするのではないかという話があったと思うので、その辺ちょっともう少し詳しくお伺いをしたいと思いますし、あわせて防災基地というのはどうしても必要になるのではないかなと、こう思うわけですが、三陸沿岸、岩手県沿岸の津波に限らず地震も含めてですが、防災基地のあり方というのはどのようにしたらよろしいのか、御所見をお伺いしたいと思います。
 最後に、よく地域の方々から津波記念館の設置の要望があるわけですが、先ほど話がありましたとおり、危険が過ぎますと忘れてしまうということで、教育的にもさまざまな配慮がされようとしておるのですが、津波記念館のようなものがあれば、さらに効果的ではないかなと、こう思うのですが、その辺の御所見をお願いしたいと存じます。
○首藤伸夫参考人 高規格の道路をなるべく早くつくっていただく。ところが、それには非常にネックがございまして、どういうネックかというと、土木計画といいますか、そういう方の目から見ると何で三陸縦貫のあの辺を急がねばならぬかということなのです。それで、私はああいうものにどっちにどれぐらいのお金を入れるかというような決定をする土木計画的な、ある程度日本を引っ張ってくれる方と議論したことがありました。そうすると、その人の立場、発想、要するに津波で人が死ぬのはどのぐらいですか、例えば明治の津波で2万2,000人死んだ。では、その津波は何年に1回ぐらい起きますか。そうですね、明治の津波だと100年から200年に1回でしょう。昭和の津波は80年に1回ぐらいでしょう、昭和の津波で3,300日、そうすると彼らは明治の津波で200年に2万2,000人死んだということは、年間当たりにしたら幾らですかと、こうおっしゃるのです。年間当たり200人ですよ。今交通事故で年間何人死んでいるかわかりますか。だから、交通事故で死者を減らすような、そういう事故の起こる場所を改良していく方がよっぽど先ですよ。だけれども、津波というものは人が死ぬだけではなく、集落がなくなる。要するに、生活の本拠地がなくなってしまう。だから、道路で1万人亡くなっても、それで1万の集落がなくなるわけではないでしょうといっても議論してくれないのです。
 それで、どうしても船が乗り上げて交通を阻害するだろうと、これは昔からいっぱいあります。今は昔に比べて船の数が多い。しかも、津波で来たやつというのは、ほとんど無傷で置いていかれるのです。すると、それをのけようとするとまず大きな土木機械が必要になります。すると、土木機械がそこへたどり着くような道があるかということがあります。そういう道が何とか内陸からあるところと、今あるのだけれども、冬になると道路が狭くなるから大型の機械は通れないという場所が何カ所かある。大型の機械を持ち込んできたときに今度は次の問題、それは取りのけると必ず船に傷ができます。ですから、今の災害対策基本法ではどうすればいいか、これは船とは書いてありません。道路上に放置された車両、放置車両などと書いてあります。放置車両などは、原則は持ち主を確かめて、持ち主の同意を得て取りのけるのが原則ですが、県知事がその道路を緊急道路に指定すれば、持ち主がいなくなっても、これは放置車両だといって取り除いてよろしいということになります。
 問題は、放置車両等と書いてある「等」に車両よりも値段がかなり高い船を入れてよろしいかということなのです。私は昨年まで県立大学におりましたので、行政法の先生と話をして、それを取りのけたら、これ訴訟になるでしょうと、訴訟になりますと、勝てるでしょうと。最終的には勝てることは保証するが、1審、2審では負けるかもしれないと。なぜかと。
 要するに、その人の考え方はこうです。放置車両は、皆さんのいつも持っておられるマイカー、300万、400万のものです。ところが、今はちょっとした漁船でも10倍は軽くしますよね。しかも下手をすると保険に入っていないのがある。そうすると、1そう8,000万。この前北海道で聞いたら、底引きは1そう3億5,000万だとか、そんなことを言っていたのです。そういう車を出して、傷がついて、それでこの傷を何とかしてくれと。しかも数が、三陸がこうなったら、何百そうでは終わらぬかもしれませんよ。だって、明治の津波のときの漁船の損害が2,500そうぐらいになったのですから。その行政法の先生が言うには最高裁までいけば勝てますと。
 なぜかというと、要するにそれを取りのけていいということは、緊急にそれを取りのけてあけて、そのために人間の命が救われるのだと、そこが法の基本だと。さすがに最高裁までいったら、それを間違える人間はいない。では、1審ではどうですかと。それはわからないそうです。だって見てごらんなさい、今の1審の裁判官は大学を出て何の社会経験もなくぱっと入って、法律云々を文字どおりに解釈するということにたくみな人なのです。だから、場合によっては裁判に負けてしまう。裁判になって1審、2審といって最高裁に行ったら勝てますかといったら、それは勝てます。だけれども、問題はそこなのです。では、だれが被告にされるかということ。
 新潟地震のときに、これは人聞きですから本当かどうか確証がないのですが、新潟地震のときに道路がふさがれたのを自衛隊が応援に出て、道をあけようと思ったら、そうしたら家があった。そして、どうしましょうかといったら、何とかしろと、それでもう半分壊れかけたものを壊して片づけたらそれが裁判になって、そうしたら、「おれは何とかしろと言っただけで、壊せとは言っていない。」というのです。これでは困りますよね。
 だから、そうなって、例えば命を救おうと思って一生懸命道をあけた1人か2人の消防団員が裁判の被告になったらかなわない。だから、僕は今いろんな県の、例えば県知事がああいう災害が起きたときに第一にすべきことは2つあるのです。1つは、法律に書いてあろうが、なかろうが、人の命を救うために必要だと現場が判断したことは何でもやれ、そのかわり責任はおれが持つということを宣言する。もう一つは、いろんな複数県でございますから、それをきちっとまとめて窓口を一つにして中央政府と交渉する、この2つだけやっていただきたい。
 だって、一生懸命やったら、それから最終的には無罪になるとはわかっていても、それこそ現場の人間が、一生懸命働いた人間がそれから5年、10年被告なんてこんなかわいそうなことをさせるような組織は、それは組織ではないです、僕に言わせれば。
 それと同じことは、実は奥尻の津波のときに起こりかけたのです。奥尻の港へ自動車がいっぱい入ったので、そのときはその車を持ち主を特定して、おまえ揚げられる、揚げられない、ではこっちで揚げるよ、傷ついてもいいねと確認をとってやったのです。五、六台どうしてもそれができなかった。どうしたかというと奥尻町長が揚げていいと、こう言ったのです。それには理由があったのです。おかしな話ですが、奥尻の津波は7月12日の夜10時ごろ起きたのです。そして、すぐその状況が全国に、あれはいろんな原因があったのですけれども、たまたまNHKのグループがそこにいたものですから全国に報道したのです。次の日になったら、そこの奥尻の火で燃えているところにヘリコプターが来て、テレビ放送したわけです。下ではけが人はいるわ、あんな報道よりもお医者の一人、薬の一つも欲しいと言っていた。
 最初に自衛隊の軍医2人かな、それから看護婦1人かな、それがヘリコプターで来たのが次の日のお昼近く。ところが、今の世の中って恐ろしいのは、報道されたでしょう。全国から義援金が奥尻町という指定でぼんぼん来たのです。だから、奥尻町の対岸の大成町とかは同じようにやられたのですが、そこへの義援金は赤十字を通じたものしか来なかった。だから、マスメディアというのは恐ろしいですよ。奥尻町はそうやって金がぼんぼん入ってくるというのはわかっているから、町長さん得意になって、こんなものしがない、新たに買ったって大丈夫と、それで揚げたのです。
 そうしたらもう一つ問題があったのです。それは、そこにちゃんと船が入るだけの水深があるかです。これを決めていかないと入れない、それで深さをはかるのにちょっと時間がかかりました。深さをはかって、はかった作業グループはオーケーでした。ところが、それをはかって、作業グループがオーケーと言って、そして正式に決めるためには、やっぱり防災対策本部みたいなところのグループの会合があって、そこでオーケーでしょう、船を入れましょうという結論が出ない限り公式には入れられない。そこで奥尻へ来ているフェリーの船長さんが、独断で入ったのです、個人の責任で。だけれども、よく知っているところだから、救援隊も入っているし、大丈夫ということだったから、それでばっと来たわけです。だから、要するに救援をするときにどういうような手続で、これ大丈夫だと判断するかとか、その辺の手続に3時間、4時間とられたらかなわんということです。とにかくゴールデン24、24時間以内に被害に遭った人のかなりの部分の命を救えるのです。そこで5時間、6時間費やされるのはもうかなわん、本当に。
 ところが、そう言っても静岡県が東海地震であれだけ前々から手当てしているでしょう。しかも伊豆半島なんていうのは、道路がだめになったら船でしか行けない。船も港が閉塞して着けないかもしれないというところがいっぱいある。あそこは地震対策課なんていうところがあって、そういうところで一生懸命考えている人がいるのだけれども、そこで議論して、いざとなったらそういうように知事言いなさいとしてるんだけど、それが踏ん切りがつかない。だって、訴訟を起こされたら、あんな船500隻、1,000隻で済みませんよ、何百億あったって足りませんと、やっぱり結論が出ませんでして、いまだにあそこでも悩んでいます。
 ですから、本当は県単位でそういう悩みを持っているのは、やっぱりそういう防災をやる中央省庁のところで統一見解、対策をきちっとまとめる、それをやらせるべきだと思うのです。だから、県知事がそういうときにはそれをバックアップすると一言向こうが言うような体制に、それから法律的な検討をやっぱりきちっとして、そういうものをつくっていただくということになると思います。その原則はやっぱりまず1番は津波の際道路を開くに当たっては、とにかく法律的な整備が1番。2番目には、重土木機械を持っていること。3番目には、それで道をあけて被災地の住民でなくて近くの無傷の住民が行く。この3つをやっていただくと。
○柳村岩見委員長 ほかにありませんか。ほかにないようですので、質疑、意見交換を終わりたいと思います。
 首藤先生、本日は御多忙のところおいでをいただき大変ありがとうございました。
 本日の調査はこれをもって、終了いたします。
 委員の皆様には、次回の委員会運営等について御相談がありますので、しばしお残り願います。
 次回及び次々回の議会運営についてお諮りします。8月及び9月に予定されております当委員会の調査事項についてでありますが、御意見等はございますか。
 (「なし。」と呼ぶ者あり。)
○柳村岩見委員長 特に御意見等なければ、当職に御一任願いたいと思いますが、これに御異議ありませんか。
 (「異議なし。」と呼ぶ者あり。)
○柳村岩見委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたしました。
 次に、委員会調査についてお諮りいたします。お手元に配付いたしております平成18年度防災対策特別委員会調査計画案により行いたいと思いますが、これに御異議ありませんか。
 (「異議なし。」と呼ぶ者あり。)
○柳村岩見委員長 御異議がないようでありますので、さよう決定いたしました。なお、詳細については、当職に御一任願います。
 以上をもって、本日の日程は全部終了いたしました。本日はこれをもって散会いたします。

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